2011年12月29日木曜日

僕が選んだ2011年映画ベスト10

今年はベスト10やります。僕個人今年、都心のキャンパスに移動になったこともあり、劇場で見た映画の数が激増した一年でした。大学より映画館で多くの時間を過ごした一年でした。はい。不良大学生です。映画はやっぱりあの暗闇の中スクリーンでお客さんと一緒に共有してはじめて完結するもので・・・。

まぁ、御託はどうでもいいのでさっそくベスト10行きます。映画をこっちのが凄くてこっちが凄くないとかするのは個人的に嫌いなので、順位はあまり気にしないでください。ベスト10、すべての作品が自分の中でほぼ同等に傑作です。あと、当たり前ですが、映画の完成度とか素晴らしさってことより、個人的好みで選んでいます。どうぞご了承を。




第1位 『ミスター・ノーバディ』(4月公開)


人生の選択。幾重にも枝分かれしたパラレルワールドを極上の映像美でもって体験させる逸品。SF叙事詩の最高傑作。僕にとってこの作品以外ベストワンに考えられません!

「人間というのは不思議なもので,確定したはずの過去に『別の解釈可能性』があり,そのとき『別の選択肢をとった場合の私』というものがありえたと思うと,なぜか他人に優しくなって,生きる勇気が湧いてくるんです。」(「うほほいシネマクラブ」 内田樹著)

人生は選択の連続。細かな決断の結果が、今の自分だと思う。進学に恋愛。これからは就職、結婚・・・。小さい選択であっても、もし自分があの時別の選択をしていたら、違う決断を下していたら、今とは極端に異なる人生を歩んでいるのかもしれない。そしてこれから長い人生そうだ。僕自身の人生でも、まだまだ二十年しか生きてないけど、小さな選択大きな選択の積み重ねをしてきました。

でも、もし別の高校に進学したとしたら・・・。
もし別の大学に進学していたら・・・。
もし映画制作部に入っていなかったら・・・。
もしゼミに入っていなかったとしたら・・・。
もしあの時、あの入試問題に正解してしまっていたら・・・。
もし一人旅であの時、電車を降り過ごさなかったら・・・。

おおお!そんなん、一体どうなっているんだあああ!?

こんな21の若造でさえも、そんな思弁的な随想に耽ってしまう。この『ミスター・ノーバディ』という作品は。


『ミスター・ノーバディ』は、「人生の選択」をテーマにした、巨大SF叙事詩です。お話は
2092年、人間は科学の力で不死の人生を手に入れていた。突然目覚めた108歳のニモ(ジャレッド・レト)は、他の人たちと大きく異なっていた。彼は永久再生化を施していない、世界で唯一の「死ぬことのできる人間」だったのだ。もはや天然記念物扱いの彼の一挙一動は、全世界に生中継されていた。そんな折、ニモのもとにやって来たひとりの新聞記者が、ニモの過去に迫るべく質問を始めた。ベッドに身を横たえたニモは、おぼろげな記憶の数々をよみがえらせていくが、そこには虚実の境が見えない不思議な世界が広がっていた・・・。
というもの。

『インセプション』で描かれたのが「階層世界」のならば、『ミスター・ノーバディ』は「並行世界」つまりパラレルワールドのお話。

つまり、1の道と2の道があった場合、通常、映画が描くのは、主人公が「選択」したどちらか一方の道だけである。ところがこの映画は、1の道も2の道も両方描く。さらに現れた分岐点では、3の道も4の道も描く。終わってみれば、枝分かれして、12の道(人生)を描ききってしまうのです。

樹先生のおっしゃる通り、「確定したはずの過去に『別の解釈可能性』があり,そのとき『別の選択肢をとった場合の私』というものがありえたと思う」と必然的に、今の自分の状況や周囲の人が非常に尊い存在であることに直面するんだなあと思います。

う~ん。まあ、でも、僕個人も、未だにこの巨大な作品を完全には理解することはできていない状態ですからね(汗)その証拠にこの1位の記事がイチバン散雑してますから(笑)

少なくともこの映画は、簡単に感動を与えてくれるタイプの作品でも、安易に講釈をたれるタイプの作品でもありません。観客側から積極的にアプローチをかけて、その真意を読み解くことが要されるタイプの作品です。パラレルに展開される12の物語を破綻させることなくまとめあげたジャコ・ヴァン・ドルマン監督の鋭い論理的思考と、芸術性に優れた絵作りに圧巻でした。右脳にも左脳にも訴えかける力を持っています。

でも、それは、万人受けするという意味ではありません。

好き嫌いは分かれる映画でしょう。でも、脳の全領域をフル稼働させた者だけに、ようやく示唆めいたものが見えてくる。そういう映画なんだと思います。手ごわいですが、極上の余韻が味わえます。

種類としては、『エターナル・サンシャイン』、『バタフライ・エフェクト』、『インセプション』、『落下の王国』あたりが好きな人は必見です。



もし、あの時、あいつがこの映画を薦めてくれなかったら。あの時、この映画のレイトショーを渋谷に観に行かなかったら・・・。

というわけで、2011年僕の選んだベスト1はジャコ・ヴァン・ドルマル監督作品『ミスター・ノーバディ』でした。この作品に出会えたことを心より感謝します。

これだから、映画はやめられないんだよな~。






第2位 『127時間』(6月公開)


これは過酷な大自然に打ち克つスペクタクルなどではありません。渓谷で落石に右腕を挟まれ、身動きできなくなったひとりの青年の5日と7時間。被写体はほぼ岩と男だけ。これを劇仕立てにしようというのだから、まさに冒険映画ならぬ映画的冒険ってなわけです。
ってな感じで、主人公が一歩も動かないアクション映画が『127時間』。これほど変化に乏しい素材もなかなかありませんよ。そんでもって、そもそもこのストーリーは、「予想外」が起こりにくい性質のものです。おそらく100%、誰もが予想した通りにしかならない、ならざるをえないシナリオです。

それを珠玉の映像技巧でもって極上のエンターテイメントに昇華させたダニー・ボイルの手腕は、どう考えたって認めざるを得ません。
つまりところ、彼の映像美学は決してギミックにとどまるものでは無いってことです。
例えば、瞬く間に活写される冒頭。それが表現するのは、都市の喧噪を逃れ自然を求める、いや、孤独を渇望するごく普通の青年の姿です。それは観る者に解放感を与えた直後、苦痛を共有させる仕掛けとして効果的なだけでなく、後々意味を帯びてくるのです。そこから流れで、迫真の一人芝居によって、あがき苦しむジェームズ・フランコは本当に不憫というか、皮肉というか・・・。

MTV風と揶揄されるダニー・ボイルの映像表現ですが、この作品ではそれがポジティブな《生》の象徴となっているのです。生きることへのダイナミズム。この作品はそれに満ち満ちています。
最後、アーロンが脱出後の叫び「HELP!」には、生きることへの渇望とイニシエーションを終えた青年の成長が込められているのだと思いました。う~ん。あの祝祭感は号泣必須ですね。
夏に一人旅を計画していた僕にとっては、その印象は骨の髄まで刻み込まれてしまいました。


あ、あと「2011年タイトルの出方のかっこよさランキング」があったとしら、間違いなく本作が堂々の1位ですよ~。






第3位 『ザ・タウン』(2月公開)


強盗のリーダー、ダグ(ベン・アフレック)が、ある女性を愛したことによって足を洗おうとしますが、仲間との繋がりのため対立を深めていくさまと、さらに追及の手を緩めないFBIとの手に汗握る攻防を描いた作品でした。
第一作『ゴーン・ベイビー・ゴーン』に続いてのベン・アフレックの監督二作目。『ゴーン・ベイビー・ゴーン』でクリント・イーストウッドの継承者と言わしめたベン・アフレック。今作で本当にイーストウッドを継承するに値する大器である思わずにはいられませんでした。

つまり、自分をかっこよく撮る天才ってなわけです。

アクション、 サスペンス、 ロマンス、 ドラマ・・・。散漫になりがちな様々な要素を紡いでいるのは徹底した緊張感。緊張に緊張を持続させるプロットが秀逸すぎます。(脚本もベン・アフレックは噛んでいます。)「どうせ犯罪者だろ」 という心理から 「必ず生きて欲しい」そんな気持ちに変化させるプロットは実に巧みとしか言いようがありませんね。

描かれるテーマは、社会に背く仕事、仲間との仁義、惚れてしまった堅気の女・・・。『ザ・タウン』のあのラストは、フレンチノワール、香港ノワール、東映ヤクザ映画、スコセッシ作品、マイケル・マン作品など連綿と受け継がれるテーマへの独自解釈と回答を提出なのではないかと思ってしまうのです。う~む、ベン、やりおるな。

あと、アメリカ映画ファンとしては、主人公ベン・アフレックと凶悪な相棒ジェレミー・レナーの関係は、スコッセシ黄金期のロバート・デ・ニーロとジョー・ペシを重ねずにはいられませんでしたね。






第4位 『ミッション:8ミニッツ』(10月公開)


『月に囚われた男』のダンカン・ジョーンズ監督二作目。デヴィット・ボウイの息子!と宣伝される彼だが、ダンカン・ジョーンズの父デヴィット・ボウイと言われる日も近いかもしれない。
僕がこの作品を鑑賞したのは実は8月。公開前です。というのも、一人旅からの帰りの飛行機の中で鑑賞しました。航空会社がブリティッシュ・エアウェイズだったから。何もすることのない機内で、何の気なしに観たら・・・

なんと、まぁ、近年稀なSFの傑作ではないか!
2週間の禁映画生活からの思わぬ大傑作ではないか!
飛行機の中でひとり大興奮ではないか!

そんな感じで1人エキサイトしていたら、隣に座っていたイギリス人の少年とCAさんに白い目で見られてしまいました。このジャパニーズはクレイジーなんじゃないかと。

「映画通ほど騙される」コピーに偽りなしです。オチの感想は未見の方のために言いません。

ありきたりなオチなんじゃないかと期待以上に不安先行で鑑賞してください。どうせ騙されないよなどと片意地張って鑑賞してください。そんな感情も見事に破壊してくれますから。

是非この作品のスピード感にぶっ飛んでください。

前作『月に囚われた男』も傑作、今作『ミッション:8ミニッツ』も大傑作。恐るべしダンカン・ジョーンズ。みなさん、これからはデヴィット・ボウイを宣伝するとき「ダンカン・ジョーンズの父。」と言いましょう。






第5位 『ブラック・スワン』(5月公開)


いや~~~、映画ってほんっっっっっっっっっっっとうにおもしろいっすわ。

映画の可能性の幅を見せつけてくれた、そんな5月でした。

『レクイエム・フォー・ドリーム』、『レスラー』のダーレン・アロノフスキー監督。彼の真骨頂は痛ーい、痛ーい神経逆撫でアバンギャルド演出。今作は、その独特の演出&観る人がナタリーと同化したかのような錯覚に陥らせるストーリーテリングとが相まって、もう五臓六腑を鷲掴みにされるようなゾクゾク感と衝撃でしたね。

ラスト、最強のカタルシス。エンドロールが終わっても、アワアワ言って席を立てない自分がいました。

ナタリー・ポートマン。僕ら世代、『スター・ウォーズ』新三部作から見守ってきたと勝手に自称します。そんな僕らのナタリー。見事マスターベーションをやってのけた僕らのナタリー。僕らは彼女にスタンディングオベーションを捧げます。






第6位 『50/50』(12月公開)

ご多分に漏れず『インセプション』と『(500)日のサマー』でジョセフ・ゴードン・レヴィットにやられてしまったクチです。彼が主演ときたら見逃せない。そんな今日この頃です。

それに、セス・ローゲン共演ときたら、もうね・・・。

まず、特筆すべきは闘病映画が秀逸コメディーになっている点。悲劇の真っ最中だというのに、それを笑い飛ばす不謹慎さがそのうち実に気持ちよくなってくる。同じ闘病仲間の自己紹介シーンなども、毒のある笑いで観客を笑わせ心を解きほぐした直後に、深刻すぎる病状が明らかになるなど、落差の激しい悲喜劇のサンドイッチ構造。アメリカンコメディ、それも悲喜劇トラジコメディーの神髄を見ました。

闘病映画でありながらコメディーとして秀逸なのは、ひとつひとつの描写が本当に本当にやさしいから。それは映画が脚本家とセス・ローゲンの実体験に着想されているからだろう。つくり手の思いは映画の画面に出てしまうのです。

主人公を支える心理療法士役のアナ・ケドリックも実にチャーミング。『マイレージ・マイライフ』で新入社員役を演じていた彼女です。

完璧すぎるのは、ラストからエンドロールへの流れ。パール・ジャムのYellow Ledbetter。自然に涙がじわっと。


70年代がポール・ニューマン、ロバート・レッドフォード、80年代がハリソン・フォードとそれぞれの時代を象徴するアイコンとして映画俳優という存在があります。そしてジョセフ・ゴードン・レヴィットは現代という時代をよく象徴している映画俳優なのではないかと思うのです。あの透き通っているような、やりきれない微笑がどこか魅力的だったりとか。彼という存在に自分自身を投影してしまう世の中の男はめちゃくちゃ多いのではないだろうか。ご多分に漏れずボクがそうなように・・・。






第7位 『X-MEN: ファースト・ジェネレーション』(6月公開)


『キック・アス』マシュー・ヴォーン監督による『X-MEN』の前日譚。正直言うとあまり期待せずに鑑賞したのですが、とんでもない快作。X-MENシリーズ最高傑作でした。

X-MENシリーズは史実を織り交ぜた社会性、ミュータントに象徴されるマイノリティと差別というテーマです。そこで今回出てくるのがキューバ危機。人の心を操作し、戦闘を回避させようとするチャールズ。武器をねじ曲げ、力で人を押さえ込もうとするエリック。第三次世界大戦は、ケネディではなく、ミュータントによって回避されたと信じたくなるような、展開・映像ともに本当に見事です。

リンカーン記念館の前でチェスをするチャールズとエリックに、キング牧師とマルコムXの姿を象徴させる演出があります。僕は近年の映画内のメタ表現の中で最も美しい表現ではないか思います。
新三部作の一作目だとか。楽しみな限りです。






第8位 『ゴースト・ライター』(8月公開)


やっぱり、ロマン・ポランスキー監督はすごいや~。あははは~。

久々の巻き込まれ型サスペンス&政治陰謀型心理サスペンスの大傑作でした。名作『チャイナタウン』や『フランティック』などでも語られるように、ポランスキー監督はヒッチコック監督の正統派継承者であると言えます。そして、映画に映画的な幻想的な幻惑的な雰囲気をつくりだし、画面たぎらせることの天才であることを今作で改めて示してします。あの寒々しく、殺風景で、幻惑的なあの感じ・・・。そんなこと思っていると『第三の男』のキャロル・リードを髣髴したりして。

ポランスキーはヒッチコック+キャロル・リードぐらいのレベルに達してるんじゃないかな。

そして、あの終わり方。おしゃれすぎますよ。ポランスキーさん。






第9位 『モテキ』(9月公開)


イエ―イ! モテキ~~~~!!!


「ああ~、やっと日本でぼくたちみたいなモテない奴のための恋愛映画をつくってくれたよ。」というモテない現代サブカル男子としての個人的喜びと、FUCKなテレビ邦画に一石を投じてくれたという日本の映画ファンとしての喜びと、長澤まさみのエロさへの性的悦びからです。

ハッキリ言って映画としての完成度からしたらまだまだだし、映画的に『ラスト・ターゲット』と比べたら『モテキ』は劣ります。しかし、モテない現代男子、日本の映画ファンとしてこの映画に心から拍手を贈りたいのです。

タマフルでの放送作家高橋洋二氏の言葉を借りるなら、2011年現在でしか撮ることのできない作品をつくってくれたこと。ミューズとしての長澤まさみが自分の好きなコト、才能のあるコトを仕事にできるかという青年期独特の将来への不安と期待のメタファーとしての存在。確かにそうですね。
ってなわけで僕らの映画『モテキ』を第9位に選ばせていただきます。

物語は~、ちと不安定~~♪






第10位 『ラスト・ターゲット』(7月公開)

イチバン好きな映画俳優はだれかと聞かれたら。僕がそう聞かれたら答える一人の俳優はジョージ・クルーニー兄貴です。そんな兄貴主演で、世界的写真家で『コントロール』をつくったアントン・コービン監督の作品。

東映ヤクザ映画やマイケル・マン作品  を髣髴させる上質のハード・ボイルド作品でした。兄貴は最近ヒューマンドラマ系やコメディ映画でご活躍ですが、この作品のまた違ったかっこよさなんです。
男が惚れる男の映画!あ、ぼくにそっちの気はありませんよ。ペキンパーとかマイケル・マンとか深作欣二作品にあるあれです。あのかっこよさです。

とにかくジョージ・クルーニーがかっこいいのです。アントン・コービンはジョージ兄貴を最高にカッコよく撮ることに成功しています。女と仕事、組織と仁義とかそんな映画に狂った僕にはどストライクな作品でした。


あ、因みにぼくの部屋にはこの映画のデカいポスターが飾ってあります。






あと、その他、2011年僕が個人的に素晴らしかったと思う映画は、『BIUTIFUL』、『ミッション・イン・ポッシブル:ゴースト・プロトコル』、『宇宙人ポール』、『猿の惑星 創世記』、『リアル・スティール』、『ウィンターズ・ボーン』、『コンテイジョン』あたりです。


ではでは、2012年もよろしくお願いします!良いお年を、良い映画年をお迎えください。


よっし!2012年も映画館へ行こうっと!

2011年9月18日日曜日

未来を生きる君たちへ


2010・デンマーク・スウェーデン
監督:スサンネ・ビア
脚本:アナス・トマス・イェンセン
原案:スサンネ・ビア、アナス・トマス・イェンセン
出演:ミカエル・パシューブランド、トリーヌ・ディルホム、ウルリク・トムセン、ウィリアム・ヨンク・ユエルス・ニルセン、マルクス・リゴード

久しぶりの更新ですっ!この2ヶ月間、ヨーロッパをひとり放浪したりと色々ありました。これからはより一層映画に敬意と愛を込めて、ブログを書かせていただきたく存じます。
そして今回は実は初なのですが、公開中の作品を取り上げます。この作品は以前、映画評論家の町山智浩氏がラジオにて、日本公開前にこの作品を取り上げていて、ビンラディン殺害と絡めて論じていたのが印象的でした。個人的にそれ以来ずっと気なっていた作品で、ついに先日日比谷シャンテで観てきたので投稿します。


  『未来を生きる君たちへ』

 医師アントン(ミカエル・ペルスブラント)は、デンマークとアフリカの難民キャンプを行き来する生活を送っていた。長男エリアス(マークス・リーゴード)は学校で執拗(しつよう)ないじめを受けていたが、ある日彼のクラスに転校してきたクリスチャン(ヴィリアム・ユンク・ニールセン)に助けられる。母親をガンで亡くしばかりのクリスチャンと、エリアスは親交を深めていくが・・・。

 本年度のアカデミー賞外国語映画賞を受賞したデンマークの作品。

同時に、邦題へのツッコミが後を絶たない作品です。これは英題の『IN A BETTER WORLD』にニュアンスが近い希望的なものに近づけたためですね。しかし、そもそもの原題は『HÆVNEN(復讐)』とストレート。そしてこの原題こそが作品の主題となっているんです。

本作はある2組の家族が抱える葛藤(かっとう)から複雑に絡み合った世界の問題を浮き彫りにし、登場人物それぞれが復讐と赦しのはざまで揺れ動くさまを描写しています。復讐の連鎖でつながる世界を浮き彫りにし、圧倒的緊張感で画面をたぎらせます。

そのように、映画は北欧とアフリカ、大人と子供、男と女など、幾つものコントラストの中に存在する不寛容と、そこから生まれる負の連鎖を描き出してゆきますが、単純に暴力はいけない!、連鎖を断ち切らねば!、という事を声高に主張する訳ではなく、むしろ暴力を否定する事によるジレンマを描く事で《非暴力の難しさ》を突きつけるのです。
そんなこの映画は大きく二つの世界によって構成されています。一つは、エリアスとクリスチャンという子供たちの視点。もう一つは、アフリカ難民キャンプでのエリアスの父アントンの視点です。この二つの世界の魅せるコントラストがこの映画の要となっています。


 クリスチャンが、転入した学校で出会うのが、スウェーデン人のエリアスで、彼は執拗なイジメを受けています。しかし、やり返す事ができないでいるのです。たまたまエリアスと親しくなった事で、暴力に巻き込まれたクリスチャンは、躊躇する事無くいじめっ子のボスに対し熾烈な復讐を行い、結果的にいじめっ子は二人に手出しできなります。より強大な恐怖によって、小さな恐怖を遠ざけた瞬間です。
しかし、エリアスの父親であるアントンは、自らを差別的に蔑み殴った相手に対して、問いただす事はしてもやり返す事はしません。「殴られた。だから殴った。戦争はそうやって始まるんだ。」これはアフリカの紛争地で活動する彼は、復讐の連鎖が如何に巨大な怪物に育つかを良く知っているから。しかしそれは、クリスチャンにとっては単なる事なかれ主義にしか見えないのです。そしてクリスチャンとエリアスはとある行動に移してゆきます・・・。

 
一方、アフリカ難民キャンプでアントンもまた大きな矛盾にぶち当たります。ある日沢山の妊婦を虐殺してきた男が患者として運ばれて来るのです。
 アントンが信条とし、クリスチャンに見せた理想は、暴力が日常である苛酷な現実の前で、余りにも無力なのです。圧倒的非暴力の無力さ。これを提示される瞬間。


スサンネ・ビア監督は、デンマークの少年達とアフリカで活動する医師の姿を通して、暴力には暴力で対抗するべきなのか、或いは何があっても非暴力を貫くべきなのか、この非常に終わりのない自問自答を観客に問いかけます。それは映画館を後にしてもしばらく頭の中を巡ります。

どんなに非暴力の理想を持つ人でも、例えばクリスチャンがいじめっ子をボッコボコに殴るシーン、或いは悪漢がぐちゃぐちゃにリンチされるシーン。ここで観るものは悪しき者が罰せられたという一種の恍惚感を感じることでしょう。復讐のカタルシスです。客観的にみるとこれは怖いのでは。
暴力を捨て、憎しみを捨て、寛容に生きるという事は、言うほど簡単な事ではない。なぜならそれは、子供のイジメから、国家間の戦争に至るまで、人類が出現した時点から抱えている言わば原罪であり、それが人間が人間たる所以であるからです。


その中で登場人物はある決断をします。

このテーマは身近な問題でもあるため、これまでの作品と違い自分の物語として捉える観客も多いかと思います。それだけに主人公たちの決断、赦しの姿勢に共感できない人もいるかと思いました。
しかしこの作品の魅力はテーマや題材そのものではないのです。ラストで常に希望を感じさせるのは、下した決断の正しかった結果として希望があるのではなく、決断することで前進していく姿に、観るほうが希望を見出すからでしょう。何が起こっても、それでも生き続けていくのだという人間の強さを感じさせる点に、心が動かされるのかもしれません。


9・11テロからちょうど10年。
この復讐の10年。それを振り替えさせる映画でした。この機会にぜひ映画館へ。

2011年7月9日土曜日

《ぼくらのゼロ年代。》 ゆれる


2006・日本
監督:西川美和
脚本:西川美和
出演:オダギリ・ジョー、香川照之、伊武雅刀、新井浩文、真木よう子、蟹江敬三、木村祐一

久しぶりの邦画。個人的な趣味嗜好からやはり洋画に偏ってしまうのは否めない。でも、拳銃バンバンとか車ドッカーンみたいな映画ばかり取り上げても、頭が悪いことがばれてしまいそうなのでたまには邦画も。

 まず、ゼロ年代邦画の総論ですが、日本におけるこの10年間の映画界の大きな潮流として、アメリカ映画、いわゆるハリウッド映画を観る人が減り、邦画がよく健闘したと言われます。その一因として、9・11とイラク戦争以降、排他性が強まったことがあるのかもしれない。個人的実感としては、ゼロ年代の初頭からその傾向は強まってゆき、2008年の『ダークナイト』の作品のクオリティとその観客数に驚かされ、確信に至りましたね。そして、そこで問題にされるべきは「作品のレベル」と「集客」の過剰なアンバランスがあるのではないかということです。

そういった潮流に乗ってゼロ年代には邦画バブルの結果、膨大なゴミ邦画が量産されることとなります。しかし、その中、掃き溜めに埋もれず燦然と輝く才能と傑作はありました。

園子温の『愛のむきだし』、深作欣二の『バトルロワイヤル』、犬童一心の『ジョゼと虎と魚たち』、岩井俊二の『リリィ・シュシュのすべて』、周防正行の『それでもボクはやっていない』、山下敦弘の『リンダリンダリンダ』、三池崇史の『殺し屋1』、是枝裕和の『誰も知らない』・・・etc
などなど、それぞれに思い出深いベスト邦画があるかと思います。

そこで、おこがましいですが、ぼくが邦画ゼロ年代ベストを選ぶとしたら迷わず本作をあげます。


 西川美和監督作『ゆれる』。

 恋人や友人、その関係が切れるとこはある。しかし、兄弟は、近くて遠い似ているようで異なる、最も身近な他者としてある関係。それは互いに相手を切断できない宿命にあり、無情にも「ゆれる」しかない。


カメラマンとしても成功し、東京で派手に暮らす弟(オダギリジョー)。家業のちっぽけなガソリンスタンドを継ぎ、女に縁がなく、老いた父と二人で暮らすさえない兄(香川照之)。この二人が久しぶりの法事に、故郷で再会するところから物語は始まる。 弟は、兄が面倒な実家のもろもろを背負い込んでくれたから、東京で好きなことをやっていられるのだと薄々気づいていながら、何でも許してくれる優しく面倒見のよい兄に、無意識に甘えている状態。この日もあろう事か、兄が思いを寄せている二人の幼馴染の女(真木よう子)を送った後、そのまま部屋で抱いてしまう。そしてその翌日、事件はおきる。3人でドライブに出かけた渓谷のつり橋で、幼馴染の女だけが墜落死してしまうのだ。 さて、これは事故か、殺人事件か。唯一の目撃者となった弟の記憶もゆれる・・・。


真実の虚偽性、心理が生み出す主観性、嘘と真実、愛と裏切り・・・。それらすべてを真実と嘘に翻弄された兄弟の姿を通して体感させてしまいます。ぽっと投げ出されるひとこと、ふたことが、ゆれを生み出す。相手に対するゆれ、自身へのゆれが、観ているこちら側にも侵食し、題名通り、胸を掴んで揺さぶる。

まず、序盤の巧みさ。何やら怠惰に忙しそうなオダギリ・ジョー扮する猛が映る。まず、定点カメラの引きのワンショットでとらえる。「二年ぶりの休み」という微かな台詞と自由で縛りのない多忙ぶり。どうやら彼がカメラマンで久しぶりの里帰りすることが分かります。そして女に強烈なキスを味わらせ、さっそうとビンテージものの外車に乗り込む。ガソリンスタンドで会う女。女に猛獣のように噛みつくはずの彼は隠れるようにして目をそらす。
そこで疑問が浮かぶ。この男と女はどのような関係なのか。その知られざる関係は、一切台詞のない彼の動作と彼女の一歩間に合わないガラス越しの指先で表現されている。


 余計な説明を省く、と言うよりも、むしろ策略的な説明排除によって、映画的なミステリーを創り出し、観る者の視線と思考と感情をスクリーンに釘付けにしてしまう。まさに役者の動きによって、映画の空気を動く感覚。そのダイナミズムが確かにこの映画には存在します。 


ところで、邦画の邦画たる所以は、ぼくここにこそあるのだと思います。
アメリカ映画のようなド派手なアクションはなくとも、演者の微細な心情の動きをとらえ、その一変した映画の空気そのもので観客を圧倒するダイナミズム。ハリウッド製アクションとは、一線も二線も画す本当の意味でパワーをもった映像の力。


 それを可能にするのは、西川監督が役者を大変に信じ、役者の演技が映画作品において視覚表現以上の大変重厚な空気を生み出すことを知っていること。
 やっぱり、オダギリ・ジョーと香川照之はもう凄いっす・・・。香川照之扮する兄は、表情としてニコニコし、優しい人柄に思えるが、その瞳の奥に潜む本心が強烈に観る者の心を突き刺します。さらに、時にそのポーカーフェイスは強烈な皮肉を生み出します。面会場で「お前はさ、真実を事実として見てないんだよ」と呟く彼の顔面と言葉は裏腹で非常にシニシズムに溢れている。そしてラスト。全てを思い出し、懺悔がうごめく中、弟と兄は・・・。
また、題名「ゆれる」の通り、吊り橋が一つのモチーフとなって、弟と兄の「ゆれる」心情を象徴しているのも、非常に綺麗にまとまっていて、心憎い!って感じですね。


まさに、主人公たちの感覚の間を彷徨う映画。映画的な表現、それを動かす役者の演技、それら全てを惹きだす策略的な脚本。小津以来連綿と受け継がれてきた日本映画の芸術性、エンタメ性が見事に昇華されたいわば、日本映画の集大成的作品といえるのではないでしょうか。

2011年6月27日月曜日

《ぼくらのゼロ年代。》 25時


 2002・アメリカ
監督:スパイク・リー
製作:スパイク・リー、トビー・マグワイア、ジュリアン・チャスマン、ジョン・キリク
脚本:デイヴィット・ベニオフ
出演:エドワード・ノートン、フィリップ・シーモア・ホフマン、バリー・ペッパー、ロザリオ・ドーソン、アンナ・パキン、ブライアン・コックス・・・

個人的にゼロ年代最高傑作の一本に挙げてもいいのではないかと思っている。スパイク・リー監督、エドワード・ノートン主演『25時』。


スパイク・リー監督といえば、80年代から90年代にかけて過激な発言によって白人アメリカへの抵抗と黒人アメリカの行き詰りを描いた社会派監督として名高い。映画監督であると同時に、現代のブラック・カルチャーの象徴的存在と言えます。
ザ・ブラック・カルチャーの存在として捉えられることの多いスパイク・リー監督ですが、実はそれは第一の潮流です。彼は80年代から90年代前半にかけて、アフリカ系アメリカ人としてのアイデンティティと人種間の対立・差別をテーマにパワフルな作品を量産します。その頂点がデンゼル・ワシントンと組んだ『マルコムX』です。そして、第二の潮流として、90年代中盤からゼロ年代にかけて彼は普遍的な人間を見つめるドラマを発表していくようになります。
その到達点が本作『25時』なのです。




そして、この映画に流れている空気を思い起こせば、いまだによみがえってくる。あの焦りや息苦しさが。ある種の緊張感を強いられ、叫び出し、逃げ出したいような衝動にかられてしまう。舞台はニューヨーク。まるで自身を癒すかのように、自分によく似た瀕死の闘犬を救う主人公モンティ(エドワード・ノートン)。彼が刑務所に収監されるまでの24時間を切り取った物語です。

冒頭、主人公のモンティが路上に倒れている血まみれの犬を救います。続いてタイトル。ニューヨーク上空に象徴的な光が幾筋も映し出される。光の正体は9・11テロで崩壊したワールド・トレード・センター跡地に、複数のライトで光の束をつくり、今は亡き2本のビルを再現する「追悼の光」です。やがて、光の束は消え、24時間の人間ドラマの幕が開く。この一連のシークエンスで、この映画が9・11後のアメリカの姿、いや世界の姿を象徴するものであることを暗示します。

エドワード・ノートン扮するモンティは堅気の道を選ぶこともできました。しかし、麻薬の売人となり、警察に捕まり、有罪判決を受け、24時間後には刑務所に収監される。刑期は7年・・・。その代償はあまりに大きい。なぜこんなことになった?怒りと悲しみと不安に苛まれながら、それでも冷静さを失わないようにふるまうモンティ。彼は最後の一夜を親友のフランクとジェイコブとともに過ごすこととする。はたして、モンティがとる最後の選択とは・・・。


9・11で大きなものが失われた。それも決して失ってはならないものが。そして、失ったものは二度とは帰ってこない。そのニューヨークの姿は、道を踏み外し後悔と失意の底であえぐアイルランド系青年モンティの姿と重なる。グラウンド・ゼロ、そこからはやり場のない怒りではなく、厳粛な思いがにじみ出す。いや、これは何もニューヨーカーに限った話ではない。現代人の精神的メタファーでもあるのです。

それは、快楽に身を委ね、先送り可能な事態には徹底的に目をそむけてきた都市生活者のある気分。おそらく破滅に向かっていると意識はしながらも、それを誰かのせいにしながら自分と向き合うことをしない。それは断ち切ることのできない鈍く重い死への行進である。そして、不安、悔恨、絶望。心の奥底に押し込めてきた感情が「状況」によって堰を切る。気づいたときには遅く、後悔の念が食い殺さんばかりに襲いかかる。でもそんな状況においても、希望を捨てることのできないのが悲しき性。きっとこれは、ぼくらの身近にもあること。


それは、ぼくの場合、心の奥そこにある、うすうす自覚はしているけど、向き合うことを避けてきたことで、それが画面で展開されるたび、叫びだし、逃げだいたくなる衝動に駆られた。その感覚は映画を観て初めて分かっていただけるかと。

でも、それだけではただの無理やりに現実を突きつけるだけのストレスフルな映画。

そこで出てくるのが《25時》の本当の意味とは何か?ということ。
そこにこそ、この映画の主題があり、モンティの選択がある。そして、行き場のない後悔と無力感に押しつぶされた現代人に残された最後の道の提示がある。ラストに展開する、その美しくも痛切なモンタージュ・シーンは涙なしには観られない。



はっきり言う。これほどのカタルシスをぼくは映画史上体験したことがない。

2011年6月14日火曜日

《ぼくらのゼロ年代。》 レクイエム・フォー・ドリーム


2000・アメリカ
監督:ダーレン・アロノフスキー
製作総指揮:ボー・フリン、ステファン・シムコウィッツ、ニック・ウェクスラー
製作:エリック・ワトソン、パーマー・ウェスト
脚本:ヒューバート・セルビー・ジュニア、ダーレン・アロノフスキー
出演:ジャレット・レト、ジェニファー・コネリー、エレン・バースティン、マーロン・ウィリアムズ、クリストファー・マクドナルド・・・

 『ブラック・スワン』、傑作でしたね。ぼくらのナタリーが、あ~なことや、こ~んなことをしたり、されたりしてましたからね。それと、僕の周りでは、「いや~怖かった」「いや~痛かった」という声が多いです。
 それもそのはず、監督はダーレン・アロノフスキー。
 『ブラック・スワン』=ナタリーが凄い(色んな意味で)と一刀両断に語られることが多いかと思います。しかし、今回はその悪趣味監督ダーレン・アロノフスキーに注目してみたい。
 というわけでダーレン・アロノフスキー監督、ゼロ年代の怪作『レクイエム・フォー・ドリーム』を取り上げる。

 まず、アロノフスキー監督は人間や都市に潜む闇の存在をえぐりだし、観るものの神経を逆撫でするアバンギャルド演出が作風の作家です。これはデビュー作『π』や、『ブラック・スワン』にも顕著です。『ブラック・スワン』でも、背中から首筋にかけてがゾクゾクする感覚に襲われた方も多いはず。これこそが、まさにアロノフスキー演出の真骨頂。
 その悪趣味演出が、人物描写において異常なまでに炸裂したのが本作。

  
 『レクイエム・フォー・ドリーム』は現代都市生活者に見られる中毒症状一般についての考察であり、自滅してゆく人々の生態観察でもあります。掃き溜めのようなコニーアイランドで、いつかどこかにある幸福を夢見ながらドラッグにおぼれてゆく若者たちと、大好きなテレビ番組に出演しようとダイエット薬中毒になり、現実と虚構の区別のつかなくなって行く主人公の母親の姿を描いゆきます。

 『レスラー』などでも精神と肉体の感覚世界にアプローチしているアロノフスキーは、原作の地獄絵図とその作風と摺合せ、非常に痛みを込めて描写することに成功しています。精神ゆがみは肉体に反映し、肉体のゆがみは精神に影響を及ぼしてゆく。この精神と肉体の関係は切り離すことは決してできない。だからこそ、人は心や身体に痛みを感じたとき、薬や酒やテレビなどに夢中になることで精神と肉体を麻痺させることを欲し、一時的な恍惚におぼれる。

 しかし、この恍惚こそが、「地獄の底に通ずる穴の入り口」で、そう悟ったときはもう遅い。後ろに戻ることはできず、覚めることのない恍惚感を求めて、現実からの逃避の欲望は加速します。


 「夢」や「あいまい」を心どこかに持ち続けているのが本作の登場人物たちです。しかし、現実ではそんな主人公たちが生きにくい。本作には「夢」や「あいまい」を拒絶する絶対的な現実世界への厳しき認識があります。

 でも一方では、人間は夢をもつことなしに生きることのできない生き物です。『レクイエム・フォー・ドリーム』は、そうした矛盾した現実から逃避した彼らを、悲しき哀れな生き物として描きます。それには、「残酷な現実」と悦楽に浸ることでそこから必死に逃げる主人公たちへの「優しさ」を感じるのです。タイトルの意味するところはそこです。「夢のための鎮魂歌」。

 「シネマ秘密基地」では、僕が観て、責任をもっておすすめできる作品しか取り上げていないつもりです。しかし、『レクイエム・フォー・ドリーム』は100%の肯定でもっておすすめすることはできません。しかし、それぐらい凄まじい破壊力を持った作品といえます。アロノフスキーの地獄巡りに同行する勇気のある方は是非ご鑑賞ください。

2011年6月11日土曜日

《ぼくらのゼロ年代。》 エレファント

2003・アメリカ
監督:ガス・ヴァン・サント
製作総指揮:ダイアン・キートン、ビル・ロビンソン
製作:ダニー・ウルフ
脚本:ガス・ヴァン・サント
出演:ジョン・ロビンソン、アレックス・フロスト、エリック・デューレン、イライアス・マッコネル、ジョーダン・テイラー、ティモシー・ボトムズ・・・

ガス・ヴァン・サント監督の『エレファント』は、1999年4月20日にコロンバイン高校で起きた銃乱射事件を描いた、カンヌ映画祭のパルムドールと監督賞を受賞した異色作です。

 ガス・ヴァン・サントという監督の特徴を一言で表すなら、「空気」を撮る監督、言えるのではないか。
 本作ではいわゆる「物語」は破棄されており、通常の映画なら飾れるであろう装飾物の一切を削ぎ落としています。その代り、映画は、端正な色彩と構図、最小限の音響、意味のない会話、登場人物をまとう独特の空虚感・・・など厳選された要素の積み重ねによって構成され、その中からガス・ヴァン・サントが紡ぎだすのは「空気」そのもの。つまり、あまりに透明であるがゆえに、かえって不穏さを感じさせる「空気感」なのです。

 中心となる数人の登場人物は、平凡な日常を生きている匿名的な高校生たちです。彼や彼女らの歩く姿を、カメラは背後から見守るかのようにロングショットで追い、校庭、廊下、教室、食堂、図書館、写真室などを移動しつづける。高校生活を送った人ならだれにでも、当時あった日常。それが実にリアル。その中を立ち込めるのは、誰もが経験したあの穏やかで透明すぎる空気。観るものはスッと映画の中に入む。
 しかし、一瞬カメラはふいにスローモーションに切り替わり、そしてその中に「不穏さ」をとらえる。それまで流れていた日常の時間を変質させ、その場に忍び寄る「不穏な空気」を明白にします。

 映画は一見、穏やかに進行しながら、徐々にその緊張感を高めてゆき、クライマックスへの悲劇へと不気味なくらい自然に流れ込む・・・。



 興味深いと感じたのは、映画の中で登場する高校生がまるで社会の縮図のように、一人一人異なる問題に対面していること。例えば、トイレに行くにもダイエットのために食べたランチを吐き出すのにもグループでいかなければ仲間はずれにされてしまう女子生徒の友情に対する価値観。アルコホリックな父親の存在に苛立ち、さらに校長に呼び出されて叱責され、さらに苛立ちをつのらせるジョン。写真という熱中できるものを持ち、ひたすらシャッターを押すことに没頭するイーライ、容姿もスタイルも冴えず、何をするにも愚鈍で他の生徒からは嘲笑の的になっているミシェル。アメフトの花形プレーヤーで、恋人とはラブラブ、そして学校の女子生徒からの憧れの的であるエリック。そしてバイオレントなテレビゲームに夢中になり、学校や他の生徒を恨んで仕返しを企むアレックス。登場するこれらの主要な高校生たちは、知り合いであったり、廊下ですれ違うだけで顔を何回か見たことのあるくらいの関係であったり、様々で、人物はそれぞれ均一に淡々と描写されます。
 しかし一律に言えるのは、それぞれがそれぞれに内なる闇を抱えている若者たち。人物をそれぞれ均一に淡々と描写することでそこはかとなくそれを伝えます。
 これらの描写も僕は実にリアルに感じた。というのは、数年前まで自分の日常にあったものがそのまま描かれている感じがしたからだ。

 つまり、誰がヒーローでアンチヒーローなのかという構図は完全に崩壊させています。カメラは事件を起こす2人も、射殺される高校生も、全て均等に映し出し、「誰が悪いか」を決めようとはしません。むしろ銃を乱射した2人こそ、社会の生み出したものや価値観の犠牲になった哀れな、報われるべき子供たちであることを痛感させられます。放任主義で、親子間の会話はあまりない彼らは、親の与えたカードで何でも手に入ってしまう。彼らががライフルをインターネットで買っていることを両親はよもや知るよしもない。



 ガス作品の共通のテーマは前述した「空気」と、「若者」です。彼は、ある時代のある場所のある時間に流れていた空気を若者に託して再現しようと試みたのです。それは、『マイ・プラーベート・アイダホ』、『ジェリー』、『ラスト・デイズ』、『パラノイドパーク』・・・などにも顕著です。しかし、もっともその空気感が強力なのは『エレファント』かと。

 世紀末の白茶けた日常を、何の希望も展望もないまま、あてどなくさまようしかなかった若者たちの背中の表情に、穏やかな抑圧と、秘められた狂気を見出し、そこに浮かび上がるであろう疑問を、疑問のままに観客と共有することで、不条理な運命にもてあそばれた世紀末からゼロ年代を浮彫りするのでしょう。




PS
 ガス・ヴァン・サント監督の最新作『レストレス/Restless』には、われらが加瀬亮くんが出演しています。日本では12月に『永遠の僕たち』というしょうもない邦題で公開されるそうです。ともあれ、3年ぶり新作ということもあり非常に楽しみですね。



12月公開予定 『永遠の僕たち』

 

2011年6月2日木曜日

《ぼくらのゼロ年代。》 メルキアデス・エストラーダの3度の埋葬

 
2005・アメリカ・フランス
監督:トミー・リー・ジョーン
製作総指揮:リュック・ベッソン、ピエール=アンジェ・ル・ポーガム
製作:マイケル・フィッツジェラルド、トミー・リー・ジョーンズ
脚本:ギレルモ・アリアガ
出演:トミー・リー・ジョーンズ、バリー・ペッパー、フリオ・セサール・セディージョ、ドワイト・ヨワカム、ジャニュアリー・ジョーンズ、メリッサ・レオ・・・

アメリカ・テキサス州。国境にほど近い荒れ地で、メキシコ人カウボーイ メルキアデス・エストラーダの死体が見つかる。純朴なメルキアデスを心から愛していた友人ピートは、深い悲しみに襲われながらもある約束を思いだす。「俺が死んだら、故郷ヒメネスに埋めてくれ」。ひょんなことから、メルキアデスが国境警備隊員のマイクに殺されたことを知ったピートは、マイクを拉致。彼に無理矢理メルキアデスの死体を担がせ、メキシコヘの旅に出発する・・・。

 ゼロ年代、隠れた秀作といったところだろうか。

 監督はなんと名優、トミー・リー・ジョーンズ。彼といえば、思い浮かぶのは、アメリカの荒野の過酷の中に生きてきた男の深くしわだらけの顔。でも、僕の中で彼といえば『メン・イン・ブラック』のKですかね。BOSSのCMの宇宙人ジョーンズさんといえば、思うかぶ方も多いはず。
 そんな男の中の男、トミー・リー・ジョーンズの鮮烈な監督デビューは果たした作品が『メルキアデス・エストラーダの3度の埋葬』。カンヌで男優賞と脚本賞の2賞に輝き、期待を裏切らない、いぶし銀の男の映画に仕上がっている。

  物語は、テキサスのカーボーイのピート(トミー・リー・ジョーンズ)と、流れ者のメキシコ人のメルキアデス・エストラーダの出会いから始まる。共に働くようになった彼らは、すぐに打ち解けて親友になります。メルキアデスはピートに言います。
「俺が死んだら故郷のヒメネスに埋めてほしい」
 一方、新しくこの土地の国境警備員に就任したマイク(バリー・ペッパー)は、勘違いからメルキアデスを射殺してしまいます。メルキアデスはコヨーテに食い荒らされた状態で発見されますが、事件はもみ消され、早々に捜査は打ち切られてしまう。ピートは親友との約束を果たすため、むりやりマイクを拉致し、旅に出発する。

 脚本を手掛けたのは、アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ監督とのコンビで知られるギレルモ・アリアガ。『アモーレス・ぺロス』、『21g』、『バベル』など、時間軸と場所が複雑に入り組んだ群像劇の中で、人間関係を組み立て直すことによって生と死の境界線の溶けたような、本来矛盾するはずのリアリズムと寓話性が共存する物語を紡ぎだしてきました。
 本作でそのスタイルを維持しながら、決して言葉や表情に感情を表すことのない西部男たちや、そんな男たちの社会に生きる女たちの、メランコリックな心象の向こう側にある人間そのものの孤独を浮かび上がらせています。

 こんな場面があります。妻を故郷に置いてきたため、孤独に耐えかねているメルキアデスを見かねて、ピートは彼に白人女性を紹介します。不法移民の彼は一緒に街に出ることで、国境警備隊に見つかることを心配しているのですが、ピートの「俺に任せておけ、なに大丈夫さ。」といった表情に、なにとなしに安心するというシーンです。これこそが友情の証というやつです。男泣きもの。
 
また、あまりに手厳しい主人公にいたぶられながら人生を学んでいくマイクを演じたバリー・ペッパーの役どころも面白い。人間として未熟な男、大人になりきれていない男、という役柄を体当たりでありながら、観客にこのマイクの気持ちがものすごくよく分かると思わせてしまう。というのは、劇中における「人間の弱さ」そのもののアイコンがこのバリー・ペッパー扮するマイクなのです。

 友情とは何か。贖罪とは何か。信仰とは何か。信念を持つこととは何か。・・・
実に多くの問題提起をしながら、それらをひとつひとつ作品の中で消化し、最終的には答まで提示する。同時に男の仁義や友情といったテーマを扱いながらもセンチメンタルなタッチを抑え、ラストにはいずこへと去っていく主人公の背中がほろ苦くも崇高な余韻を残す。まさにゼロ年代版男泣き映画の傑作でしょう。

PS
映画の中で出てくる盲目の老人役は、なんとザ・バンドの リヴォン・ヘルム。恐ろしくいい味出しています。


2011年5月8日日曜日

《ぼくらのゼロ年代。》 スター・ウォーズ 『エピソードⅠ ファントム・メナス』 『エピソードⅡ クローンの攻撃』 『エピソードⅢ シスの復讐』

 
1999・2002・2005.・アメリカ
監督:ジョージ・ルーカス
脚本:ジョージ・ルーカス
製作:リック・マッカラム
出演:ヘイデン・クリステンセン、ユアン・マクレガー、ナタリー・ポートマン、イアン・マクダーミド、サミュエル・L・ジャクソン、リーアム・ニーソン、ジェイク・ロイド、フランク・オズ、クリストファー・リー、アンソニー・ダニエルズ、ケニー・ベイカー・・・

 1970年代、ベトナム戦争終結等の社会風潮を受けて、内省的なアメリカン・ニュー・シネマの全盛期を迎えていました。そんな中、1977年に公開された『スター・ウォーズ』は、新世代の観客から熱狂的に迎えられて社会現象となります。観客は心から心酔できるアメリカ娯楽映画、ポジティブなストーリーに飢えていたのです。そして、旧三部作『スターウォーズ』は、それまでB級映画という扱いだったSF映画の地位を一挙に押し上げ、映画界の潮流を変えました。

 『THX1138』、『アメリカン・グラフィティ』そして『スター・ウォーズ』。ルーカス作品の共通テーマとなるのは、《現状からの脱出》です。
 旧三部作『スター・ウォーズ』もSF青春映画と言えるもので、ルーク・スカイウォーカーという田舎青年が、退屈な日常から脱出し、ロマンとチェイスにあふれた冒険譚へ向かう物語です。救世主として大宇宙へと身を乗り出してゆく様を、自らの出生を紡ぎながら描く。最終章では、帝国軍を象徴する父=ダース・べイダーを倒し、親子の確執を克服するとともに銀河系には平和が取り戻され、ルークとその仲間は英雄となる。
ゆえに、旧三部作は世界平和奪還と同時に、ルークの成長物語といういわば【陽】の物語。

 あれから16年。ルーカスは、前日譚として、ダース・ベイダーつまりルークの父親、アナキン・スカウォーカーの物語を描く。ルークの青春、成長とは真逆に、父アナキンの青春が呪われた悲劇へと向かうのは運命です。ゆえにこの新三部作のゼロ年代『スター・ウォーズ』の冒険には旧三部作のような天真爛漫とした楽しさは無い。いわば、【陰】の物語です。

よって、ゼロ年代『スター・ウォーズ』は、旧三部作をリアルタイムで体験したファンから話自体がまったくおもしろくないという批判を受けます。しかしこれは当然のことでした。なにしろ旧三部作で成功した物語のまったく逆の物語が、新三部作の軸。旧三部作のように善・悪がはっきりとした世界でもなければ、勧善懲悪の世界でもないです。善・悪がせめぎあい、誰が悪で誰が正義かもはっきりしないわかりづらい疑心暗鬼に満ちた残酷な世界。

 勿論、作品単体での観客うけのみを狙うなら、CGを駆使して最初からド派手な戦争を描けば良いし、悪役を前面押し出せば良い。そのほうが分かりやすいし、娯楽的。
 しかし、善と悪がせめぎあう混沌とした世界のなかで、少しずつ悪の側が台頭していく、そのあたりをルーカスは非常に綿密に粘り強く描いています。これはスター・ウォーズの前史としてはさけては通れない過程であり、ルーカスが観客のうけ以上に、全六作を通して完成された一貫した物語の完成を目指したと考えられます。つまり共和国の崩壊と、悪の台頭です。そこをしっかりと描くことによって、後々の壮大な物語の輪郭もはっきりとしてくるのです。
 ルークの対照となるアナキンの描き方もそう。エピソードⅡにおいて、後に銀河をゆるがすことになるアミダラとアナキンの恋が淡白に描かれていることや、アナキンの性格の悪さ、ヒーローとしてのアナキンの未熟さといったものが描かれているのは決して映画自体をおもしろくする要素ではありません。しかし、旧三部作を観たファンが感情移入できないほどアナキンを徹底的に未熟で傲慢で血気盛んな若者として描くことにより、後に続く物語がより深い意味を帯びてくることになるのです。

 そして、ゼロ年代『スター・ウォーズ』の物語の臨界点がエピソードⅢのアナキンとオビ=ワンの痛ましい決闘です。背景の塗り込まれた漆黒の中、それを切り裂くように流れる溶岩の赤。この赤がいかに鮮烈に観るものの視覚に訴えるか。また手足を切断され芋虫のごとくはいずり回るアナキンからら流れ出る血。それと相まってその赤は異様に不気味で鮮烈。これは呪われた血縁そのものを象徴している赤なのです。

 自身の父を知らないアナキンは、母のシミやアミダラの愛に飢えていました。しかし、皮肉にもそれは度重なる悲劇を生み、その悲劇は帝国軍に利用され、師であり、兄であり、父であったオビワンとの関係を引き裂きます。ダークサイドへ落ちへゆくその姿はあまりに悲痛です。

 旧三部作のルークは、ぼくらのヒーローといった印象です。それに対しこのゼロ年代『スター・ウォーズ』のアナキンは良い意味でも悪い意味でも実に人間的な弱さをもった等身大の若者の印象を受けます。
 ジェダイはいわば人の堕落の原因となる人間の個人的な執着心とひきかえに、超人的なバワーを身に着けるわけだが、アナキンはそれを捨てきれず、優れた才能をもつがゆえに傲慢になり、個人的な執着心のために禁断の恋をし、母親への愛から暴走する。若者なら誰もがもつような悩みや弱点が、後に彼が転落していくうえでの大きな原因となる。
ゼロ年代に思春期を迎えた人で、何に対しても怒りに満ち、反発し、うまく感情を表現できないアナキンの姿を、とても他人事にはとらえられなかった人は少なくないと思う。僕は旧三部作のルークよりも新三部作のアナキンの方がより感情移入できました。
 きっとルーカスはアナキンをどこにでもいる若者のカリカチュアとして描くことによって、誰もがその転落の可能性を秘めているという教訓をそこにこめているように思います。だからあえてアナキンに劇的な物語を用意せず、淡々と彼が堕落していく様を描いている。アナキンの姿は、閉塞的なゼロ年代を生きる若者の象徴です。



 これまでの『スター・ウォーズ』に欠けていたものは、人間のもつ根源的弱さと悲惨な末路、つまり物語上の“ダークサイド”。そして、これがスクリーンで展開され、【陰】と【陽】がせめぎあうとき、初めて『スター・ウォーズ』はその神話体系としての全貌を現すのでしょう。

 『スター・ウォーズ』、僕を映画狂にした罪深き作品です。





2011年5月5日木曜日

《ぼくらのゼロ年代。》ザ・ロイヤル・テネンバウムズ



2001・アメリカ
監督:ウェス・アンダーソン
製作総指揮:オーウェン・ウィルソン、ラッド・シモンズ
製作:ウェス・アンダーソン、バリー・メンデル、スコット・ルーディン
脚本:ウェス・アンダーソン、オーウェンウィルソン
出演:ジーン・ハックマン、アンジェリカ・ヒューストン、グウィネス・パルトロー、ベン・スティラー、ルーク・ウィルソン、オーウェン・ウィルソン、ビル・マーレイ、ダニー・クローヴァー、シーモア・カッセル、アレック・ボールドウィン・・・

 テネンバウム家の長男・チャス(ベン・スティーラー)は10代で金融ビジネスマン、養女のマーゴ(グウィネス・パルトロウ)は同じく10代で劇作家、次男のリッチー(ルーク・ウィルソン)は天才テニス選手。そんな天才一家も、有能な弁護士だった父・ロイヤル(ジーン・ハックマン)の不誠実で離れ離れ。妻・エセル(アンジェリカ・ヒューストン)と別居して22年、家族と何年も口を聞いていないロイヤルは、滞在するホテルの支払いも滞り、もう一度「家族」を取り戻そうと一計を案じる…。

 ゼロ年代にその才能を花開かせたフィルムメーカーのひとりとして、ウェス・アンダーソンの名を上げるのは、まず間違いないだろう。1969年生まれの彼は、70年代のポップソングのように、力強くカラフルで、ナイーブで、心優しい作品を特徴とする才能。

 彼の名をまず世に知らしめたのが、98年の『天才マックスの世界』である。この作品は人と違うことの孤独感を全く見せない天才少年マックスの、恋愛と成の青春物語、意思疎通の不全を主題とした半自伝といえる。またこの作品に展開される、偏屈的にまでに管理された色彩や小道具や音楽によってえがかれる人工的な映像は、「天才ウェスの世界」として、その後の作品にも受け継がれ、いわゆる《作家性》というやつとして確立してゆく。また、意思疎通の不全はウェス作品の共通テーマです。


 そして、その作家性を貫き通し、カルト的人気から見事大衆からの支持を勝ち取った傑作が本作『ザ・ロイヤル・テネンバウムズ』。

 地方都市の名家の栄光と没落を描いたオーソン・ウェルズの『偉大なるアンバーソン家の人々』にインスパイアを受けたという本作は、ジーン・ハックマン扮する放蕩親父に翻弄されてきた元・天才のテネンバウムス家という家族の現在を描く物語です。テネンバウムス家の子供たちは幼くしてそれぞれの才能を発揮した元・天才なのである。だがそんな彼らは現在、成長とともに壁にぶつかり、人生の道を進ない。そんな過去という殻を破れずにいる、半分大人。彼らの苦悩の根底にあるのは父親の愛情の欠乏とコミュニケーション不全。それが解決せぬまま両親は離婚し、子供たちは大人になってしまった・・・。

 しかし、これを聞くと、シリアスドラマかと思うかもしれなが、本作はポップコメディ。というのも、家族と彼らを取り巻く人々のキャラクターが濃く、滑稽で思わず笑ってしまうような奴ら。ふつう、退屈なシリアスドラマとして描かれるような題材にもかかわらず、人間味あふれるキャラとポップな音楽でコメディ調で描きつつ、コメディには終わらず登場人物の内なる心をしっかり描写し、再生へと結び付ける。これはウェス作品持ち味となっています。

前に続き、テーマは意思の疎通不全(これは続く『ダージリン急行』にも受け継がれます。)そして家族という場の完全に構築された映像によって、この家族の自閉的で観念的な世界をポップな感性で映像化している。 彼らは自分の抱えている問題で頭がいっぱいになり、他人のことが見えなくなっている。挫折感を味わったことで、臆病気味でもある。
 このように、家族でありながらお互いがお互いを理解できず、まるで他人のようになってしまっているという家族という最少単位の集団における絆の希薄化とその再生は、ゼロ年代映画の大きな特徴のひとつと言えます。例を挙げるならば、『アメリカンビューティー』、『あの頃ペニー・レインと』、『ビック・フィッシュ』、『宇宙戦争』、『チェンジリング』、『終わりで始まりの4日間』、『イン・トゥ・ザ・ワイルド』など。邦画では『トウキョウソナタ』など。《家族》がテーマの作品が量産された時代ですね。これは、アメリカ式の個人主義の限界を深層心理的に訴えています。

 そして本作で、そんな孤独な家族の内なる感情をあぶりだすのが、見事に選曲された70年代の音楽の数々。ウェス・アンダーソンは抑圧された感情を音楽の力によって解き放ちます。このように映画における音楽というファクターが見直され、ストーリーテリングにおける重要な役割として採用する作家もゼロ年代的な印象を受けます。 
とくにウェス・アンダーソン、キャメロン・クロウ、ジャック・ブラフ、ジェイソン・ライトマンなどはその手腕は、ハル・アシュビーの『ハロルドとモード』、マーティン・スコセッシの『ミーン・ストリート』に優るとも劣りません。

 『ザ・ロイヤル・テネンバウムズ』。いま生きることに手をこまねいている人へ向けた贈り物のような映画といえるでしょう。

2011年5月3日火曜日

《ぼくらのゼロ年代。》 あの頃ペニー・レインと

2000・アメリカ
監督:キャメロン・クロウ
製作:キャメロン・クロウ、イアン・ブライス
脚本:キャメロン・クロウ
出演:パトリック・フュジット、ケイト・ハドソン、ビリー・グラダップ、フランシス・マクドーマンド、ジェイソン・リー、アンナ・パキン、フェアルザ・バルク、ノア・テイラー、ズーイー・デシャネル、フィリップ・シーモア・ホフマン、テリー・チェン・・・

1973年、大学教授の母(フランシス・マクドーマンド)と暮らす知的で陽気な15歳の少年ウィリアム(パトリック・フュジット)は、姉アニタ(ズーイー・デシャネル)が教えたロック音楽の魅力に取り憑かれ、学校新聞などにロック記事を書いていた。やがて、伝説のロック・ライターでクリーム誌の編集長、レスター・バングス(フィリップ・シーモア・ホフマン)に認められ、さらにローリングストーン誌からも声がかかり、ウィリアムが愛する新進バンド、スティルウォーターのツアーに同行取材をすることになる。そして、このバンドを追う少女たちの中にいた、一際美しいペニー・レイン(ケイト・ハドソン)に恋をする・・・。


 僕の中でのゼロ年代最大の青春ムービー。監督キャメロン・クロウの実体験を下敷きに描かれる「想い」のいっぱい詰め込まれたラブレターのような映画は、大人なら多かれ少なかれ誰もが通ってきたであろう『青春の日々』を呼び起こします。
 1969年。ウィリアム(クロウの分身)は自分が二年飛び級していたことを突然知らされて驚きます。扮する彼の母親(フランシス・マクドーマンド)は大学の教育者で教育には一際強い持論がある。そんな母に反発する姉(ズーイー・デシャネル)は街へ出てスチュワーデスになることを夢見ています。ある日、彼女は母親に自分の気持ちを理解してほしくて、サイモン&ガーファンクルの『アメリカ』を聴かせます。しかし、ロック否定派の母には伝わらない。彼女は大切なレコードたちを愛する弟に残し、二人に別れを告げ、家を出て行く・・・。頭にはカーラーを巻いたまま・・・。
 このシーンが素晴らしいのは、一見いがみ合って見える親子、母と姉が親子という関係や年齢を超えて対等に向き合い、心の底ではお互いがお互いを認め合っていることを非常に丁寧に伝わってくることです。


 1973年。15歳になったウリィアムは尊敬する音楽評論家レスター・バンクス(フィリップ・シーモア・ホフマン)と出会い、ライターとしての心得を授けられます。「評論家で成功したけりゃ、正直に手厳しく書け。行き詰ったら電話しろ。夜中でもいい。」そして彼の雑誌クリーム・マガジで記事を書くことになり、こうしてウィリアムの人生は本格的に動き始めます。
  本作は少年と大人たちとの出会いの連鎖を見つめた物語です。ウィリアムの一番身近な大人だった姉から教えられたロックの世界はレスター・バンクスとの出会いにつながり、彼との出会いはスティルウォーターやペニー・レインとの出会い、ローリングストーン誌での執筆につながって行きます。
 ひとはひととの出会い、また出会いを生み、成長し人生が形成されてゆく。少年を取り巻く大人たちは、その不完全さゆえに、意志と覚悟、孤
独と優しさをにじませていて、それらすべてがウィリアムへと引き継がれてゆくさまは実に美しい。実はこの過程にこそこの映画の魅力があり、人々に共感と感動を与えます。
 きっと、何かにのめり込むことで、持て余す若さのエネルギーを漠然と発散していた頃を経験した事のある方なら、何らかの感情を抱くと思います。
 大学1年時に観たときの感動は今でも忘れない。大人になる近道は一人で旅に出ることだと背中を押してくれた作品。危ないからといって何もさせない親の気持ちも理解できますが自立とは自らの意思で責任ある行動をとることであって、いつまでも親の指示に従っていては、判断の機会が与えられないっ。そう思います。


でもやっぱり、ペニー・レインと彼女を演じたケイト・ハドソン。彼女は少年が大人になる過程で出会い、恋をする女性に必要なすべてを持っている。


最近、友人に勧められた動画。『あの頃ペニー・レインと』を観たときに似た感覚がふつふつとこみ上げてきた。山崎さん、最高です。

2011年4月29日金曜日

《ぼくらのゼロ年代。》 ファイトクラブ


1999・アメリカ
監督:デビット・フィンチャー
製作総指揮:アーノン・ミルチャン
製作:アート・リントン、ショーン・チャフィン、ロス・グレイソン・ベル
脚本:ジム・ウールス
出演:エドワード・ノートン、ブラッド・ピット、ヘレナ・ボナム・カーター・・・

主人公は自動車会社のリコール査定士。ここ数カ月は不眠症に悩み、さまざまな病気を抱える人々が集まる「支援の会」に通い始め、そこで泣くことに快感を覚えるようになる。ある時、やはり「支援の会」中毒の女、マーラに出会い、電話番号を交換する。出張先の飛行機で主人公はタイラーと知り合う。フライトから帰ってくるとなぜかアパートの部屋は爆破されており、主人公は仕方なくタイラーの家に泊めてもらうが、タイラーは自分を力いっぱい殴れという・・・。  

 とんでもない破壊力に満ちた映画。ゼロ年代を目前にした1999年、デビット・フィンチャーは方向を見失い暴走して行く若者の姿を通して、究極のカタルシスを描いた。「お前たちが見たいのはこれだろっ!」と言わんばかりに。この映画を観たときの快感は、『時計じかけのオレンジ』を観たときの一瞬だけ感じるちょっと怖い爽快感に似ている。
 

 主人公は不眠症に悩み、物質主義に首まで浸かっている顔色の悪い男。言い知れぬ欲求不満と衝動を抱えており、飛行機に乗ると事故で機体と人が吹っ飛んでゆく夢想に駆られる。不安からではない。凄惨な事件を想像することにえも言われぬ刺激を覚え、自分よりも不幸な人間を眺めると安堵するのだ。そんな彼は、ある日、タイラーと名乗る男に出会う。タイラーは、「消費者として生きることから脱却すべきだ。我々は消費社会に去勢され、肉体を失ったも同然」と説く。心を鷲づかみにされた主人公はタイラーとともに「ファイトクラブ」を結成し、メンバーを増やし、男たちは血まみれになるまで殴り合うことで、「生」の実感を得て行く。しかし、タイラーの暴力思想に扇動され、「ファイトクラブ」は反社会的行動へと拡大していく。

 90年代は心の内面の狂気が叫ばれる時代でした。物質主義に満たされ、幸福や絶望に鈍感になり、虚無の迷路に迷い込んだ若者たちの共感しがたい他者よりも自己の内面
へと向かいます。この映画に宿る暴力と狂気が観る人々に受け入れられたことは、人々の意識の底に眠った狂気にとって実に刺激的であり、思わず共感してしまったと解釈できます。

 というのもエドワード・ノートン扮する主人公には、劇中の役名がありません。字幕には、「Narrater Edward Norton」と出ます。主人公の名前は、「ナレーター」なのだろうか。いや、ナレーターとは、「ドラマのナレーター」のように使われるように、語り手、ナレーションを入れる人という意味です。すなわち、『ファイト・クラブ』は、エドワード・ノートンのナレーションによって一人称的に語られる形式になっていたということが、この字幕から再確認できます。 そして結局のところ、主人公の名前は、映画の最初から最後まで一度も登場しないのです。
 この主人公は名前を持たないということが、映画の謎解き、そしてテーマ上の実に重要なキーポイントとなっています。
 『ファイト・クラブ』は、エドワード・ノートンのナレーションによって語られる、いわゆる主人公の一人称的映画、主人公の視点から見た世界が描かれます。 そして、この主人公の名前が出てこないというのは、ラストの謎解きにおいて非常に重要な伏線となって来ます。ネタバレになるのでここまでに・・・。

 さらに、主人公が名前を持たないのには、もう一つ大きな役割があります。本作は「僕」の物語として一人称的に語られます。では「僕」とはいったい誰なのか。
 それは、我々観客自身、一人一人です。主人公の名前、それは我々一人一人の名前を当てはめることが可能。 『ファイト・クラブ』は殴り合いをする秘密クラブを描いた単なるお話ではなく、現実の自分と理想の自分との間でせめぎあい、葛藤する我々自身の心の物語として描いていると言えます。
 フラスト・レーションを抱え、生きがいを感じない我々観客一人一人が、このエドワード・ノートン演じる「僕」に成りきり、感情移入することで、主人公「僕」に憑依することができる。

 うーむ、やはりこんな映画の主人公に共感し、言葉にならない爽快感を味わう現代人は色んな意味で狂っているのかもしれませんね・・・。

 ブラット・ピットは次のように語っています。
「啓発とか悟りの探求を描いている。自分自身を捕えて、鎖につなぎと止めているもの、社会の罠からの逃避、そして何事に対しても恐れを持たないこと。『ファイト・クラブ』は我々の文化への愚弄と虫ずが走るほど嫌いなのにむりやりおしつけられたものへの応答なんだ。」

 

2011年4月28日木曜日

特集 ぼくらのゼロ年代。

 
ゼロ年代~2000年から2010年~。ぼくらが生きた「0」という時代はなんだったのだろう。ぼくらの世代にとっては、おそらくこのゼロ年代が青春時代となるのだろう。つまり、この年代の映画、音楽、漫画、アニメーションがぼくらの価値観、社会観を形成したことは言うまでもない。なぜなら、それらは常に現代を映し出す鏡のようなものだから。

 ゼロ年代前の90年代はその後半から「戦後史上もっとも社会的自己実現への信頼が低下した時代として位置づけられる」と語られます。(『ゼロ年代の想像力』宇野常寛著)すなわち1995年あたりを境に、「がんばれば豊かになれる」世の中から「がんばっても、豊かになれない」世の中へ移行して行きました。同時に、生きる「意味」や「価値」も見出すことが難しくなった。そんな中、世界はゼロの時代に突入しました。

 そして世界に戦慄が走ります。世界貿易センタービルに航空機が突っ込んだあの瞬間の映像は世界の映画に影響を及ぼさないはずがない。

同時多発テロ、ウソの戦争、大不況。誰もが信じた「強いアメリカ」、「マジメな日本」という虚像は、ゼロ年代に感受性豊かな時をむかえた僕らの目の前で、音を立てて崩れ落ちた。二本の高層ビルの如く。

 ぼくたちが生きたあの時代は何だったのか。最近の雑誌等ではよく見かける特集かもしれないが、このブログもそれに乗っかってみようかと思う。

 そんな混迷でどこかニヒリズムな意志を感じさせてくれる生きた映画、ゼロ年代前夜1999年から2010年までを取り上げていくとこにしよう。ぼくらの青春、ゼロ年代の映画が映し出し、僕らの「生」に影響を与えたものを徹底的に考えたいと思う。

というわけで行きましょう。

ぼくらの
ゼロ年代。


2011年4月22日金曜日

冒険者たち


1967・フランス
監督:ロベール・アンリコ
製作:ジェラール・ベイトー、ルネ・ピニェア
脚本:ロベール・アンリコ、ジョゼ・ジョバンニ、ピエール・ペルグリ
出演:アラン・ドロン、リノ・ヴァンチェラ、ジョアンナ・シムカス、セルジュ・レジエニ

 いや~、更新遅れました。年度初めのためバタバタとしていまして。まぁ、言い訳はこのくらいにして・・・。

 今回はロベール・アンリコ監督、『冒険者たち』。いつまでも抱きしめていたくなるような黄昏のロマンティシズムに彩られた永遠の大傑作。その全て、美しく、そして愛おしいんです。
 ロベール・アンリコ監督は、男たちの友情、ロマン、愛を一貫して描いた監督です。中でも最高傑作と名高かく、少年の心をそのまま映像化したような作品です。

 元レーサーのローラン、アクロバット飛行をしているマヌー、芸術家の卵レティシアの3人は奇妙な友情で結ばれていた。夢を追う彼らは、海底に眠る財宝を引き上げるため、アフリカのコンゴ沖にオンボロ船でやってきた。しかし、みごと財宝を引き上げたとき、ギャングが襲ってきて、流れ弾に当たったレティシアは死んでしまう。残った男二人は、財宝をもって彼女の故郷へ逃げるが・・・。



 映画史上で青春映画というジャンルで数々の作品がつくられてきました。僕も青春映画というものはとっても好きです。なんたって、映画は感情移入が命ですから。
 しかし、その時代時代の風俗や流行を描く青春モノは、その時だけのヒットで終わり、すぐに陳腐な時代の象徴的作品としか扱われなくなってしまうことがどうしても多いです。その当時を描くがゆえに、時代の壁を乗り越えることはめったにありません。

 しかし一方で、時代を超えて愛される青春映画があります。僕の好きなところで言うと、『卒業』、『ファイブ・イージー・ピーセス』、『今を生きる』、『スタンド・バイ・ミー』などなど。これらの作品は、例え、その時代の風俗(音楽、ファッション、文化、ダンスなど)を描いていていながら、その向こうに時代を越えた普遍的テーマである「愛」や「夢」、そして特に多くは《挫折》が見えてきます。

 『冒険者たち』に綴られる、「冒険心」、「夢」、そして「別れ」。これらもいつの時代、どの世代のひとが心のどこかには持っている、または持っていたものであり、未来永劫決して色あせることはないでしょう。この映画にも青春映画の魔法のエッセンスが見事にそろっています。

 主人公の三人は、全員が社会からは見放されたようなやつら。アラン・ドロン扮するマヌーとリノ・ヴァンチェラ扮するローラン。こいつらは「冒険者」なんてカッコイイわけではなくて、危険なことをして一攫千金を狙う、香具師です。年齢も青年とオヤジ。性格も違う。アラン・ドロンは世紀の美男子、リノ・ヴァンチェラは中年の太ったおっさんです。
 監督のロベール・アンリコ は、この二人の出会いも、過去の友情のエピソードも、ましては彼らの関係性に関して説明的シーンを一切もってきません。でも、余計な説明なんかいらねぇのよ。だって分かるんだもん。この二人にある熱い友情ってやつが。

 もう一人のキーパーソンがジョアンナ・シムカス扮するレティシア。彼女の美しさったらもう・・・。見てない奴は全員損してます。ハイ、ハッキリ言います。損してます。数々の映画を観てきたけど、ジョアンナ・シムカスほど海の似合う女優さんは居ないのではないか。

 これ程この映画が哀切極まりないのは、彼が描く誰もが持っている「冒険心」、「行動力」、「無謀さ」などの青春へのオマージュに共感するからでしょう。3人の主演者がみんな大人を感じさせながら、それでいて少年の心も残している。それが空々しく見えないところが素晴らしい。
 ラブシーンが全くないところも泣かせます。レティシアに対して2人の男ははっきりしたことは何も言わない。これはローランとマヌーの友情と同じ。けれども気持ちは良く分かる・・・。こうした演出は映画独自のものです。見る者の感性に訴えかけつかんで離さない。

 そして、ラスト。ああ、語りたいけどネタバレになるし・・・。ここはグッとこらえます。