2011年6月27日月曜日

《ぼくらのゼロ年代。》 25時


 2002・アメリカ
監督:スパイク・リー
製作:スパイク・リー、トビー・マグワイア、ジュリアン・チャスマン、ジョン・キリク
脚本:デイヴィット・ベニオフ
出演:エドワード・ノートン、フィリップ・シーモア・ホフマン、バリー・ペッパー、ロザリオ・ドーソン、アンナ・パキン、ブライアン・コックス・・・

個人的にゼロ年代最高傑作の一本に挙げてもいいのではないかと思っている。スパイク・リー監督、エドワード・ノートン主演『25時』。


スパイク・リー監督といえば、80年代から90年代にかけて過激な発言によって白人アメリカへの抵抗と黒人アメリカの行き詰りを描いた社会派監督として名高い。映画監督であると同時に、現代のブラック・カルチャーの象徴的存在と言えます。
ザ・ブラック・カルチャーの存在として捉えられることの多いスパイク・リー監督ですが、実はそれは第一の潮流です。彼は80年代から90年代前半にかけて、アフリカ系アメリカ人としてのアイデンティティと人種間の対立・差別をテーマにパワフルな作品を量産します。その頂点がデンゼル・ワシントンと組んだ『マルコムX』です。そして、第二の潮流として、90年代中盤からゼロ年代にかけて彼は普遍的な人間を見つめるドラマを発表していくようになります。
その到達点が本作『25時』なのです。




そして、この映画に流れている空気を思い起こせば、いまだによみがえってくる。あの焦りや息苦しさが。ある種の緊張感を強いられ、叫び出し、逃げ出したいような衝動にかられてしまう。舞台はニューヨーク。まるで自身を癒すかのように、自分によく似た瀕死の闘犬を救う主人公モンティ(エドワード・ノートン)。彼が刑務所に収監されるまでの24時間を切り取った物語です。

冒頭、主人公のモンティが路上に倒れている血まみれの犬を救います。続いてタイトル。ニューヨーク上空に象徴的な光が幾筋も映し出される。光の正体は9・11テロで崩壊したワールド・トレード・センター跡地に、複数のライトで光の束をつくり、今は亡き2本のビルを再現する「追悼の光」です。やがて、光の束は消え、24時間の人間ドラマの幕が開く。この一連のシークエンスで、この映画が9・11後のアメリカの姿、いや世界の姿を象徴するものであることを暗示します。

エドワード・ノートン扮するモンティは堅気の道を選ぶこともできました。しかし、麻薬の売人となり、警察に捕まり、有罪判決を受け、24時間後には刑務所に収監される。刑期は7年・・・。その代償はあまりに大きい。なぜこんなことになった?怒りと悲しみと不安に苛まれながら、それでも冷静さを失わないようにふるまうモンティ。彼は最後の一夜を親友のフランクとジェイコブとともに過ごすこととする。はたして、モンティがとる最後の選択とは・・・。


9・11で大きなものが失われた。それも決して失ってはならないものが。そして、失ったものは二度とは帰ってこない。そのニューヨークの姿は、道を踏み外し後悔と失意の底であえぐアイルランド系青年モンティの姿と重なる。グラウンド・ゼロ、そこからはやり場のない怒りではなく、厳粛な思いがにじみ出す。いや、これは何もニューヨーカーに限った話ではない。現代人の精神的メタファーでもあるのです。

それは、快楽に身を委ね、先送り可能な事態には徹底的に目をそむけてきた都市生活者のある気分。おそらく破滅に向かっていると意識はしながらも、それを誰かのせいにしながら自分と向き合うことをしない。それは断ち切ることのできない鈍く重い死への行進である。そして、不安、悔恨、絶望。心の奥底に押し込めてきた感情が「状況」によって堰を切る。気づいたときには遅く、後悔の念が食い殺さんばかりに襲いかかる。でもそんな状況においても、希望を捨てることのできないのが悲しき性。きっとこれは、ぼくらの身近にもあること。


それは、ぼくの場合、心の奥そこにある、うすうす自覚はしているけど、向き合うことを避けてきたことで、それが画面で展開されるたび、叫びだし、逃げだいたくなる衝動に駆られた。その感覚は映画を観て初めて分かっていただけるかと。

でも、それだけではただの無理やりに現実を突きつけるだけのストレスフルな映画。

そこで出てくるのが《25時》の本当の意味とは何か?ということ。
そこにこそ、この映画の主題があり、モンティの選択がある。そして、行き場のない後悔と無力感に押しつぶされた現代人に残された最後の道の提示がある。ラストに展開する、その美しくも痛切なモンタージュ・シーンは涙なしには観られない。



はっきり言う。これほどのカタルシスをぼくは映画史上体験したことがない。

2011年6月14日火曜日

《ぼくらのゼロ年代。》 レクイエム・フォー・ドリーム


2000・アメリカ
監督:ダーレン・アロノフスキー
製作総指揮:ボー・フリン、ステファン・シムコウィッツ、ニック・ウェクスラー
製作:エリック・ワトソン、パーマー・ウェスト
脚本:ヒューバート・セルビー・ジュニア、ダーレン・アロノフスキー
出演:ジャレット・レト、ジェニファー・コネリー、エレン・バースティン、マーロン・ウィリアムズ、クリストファー・マクドナルド・・・

 『ブラック・スワン』、傑作でしたね。ぼくらのナタリーが、あ~なことや、こ~んなことをしたり、されたりしてましたからね。それと、僕の周りでは、「いや~怖かった」「いや~痛かった」という声が多いです。
 それもそのはず、監督はダーレン・アロノフスキー。
 『ブラック・スワン』=ナタリーが凄い(色んな意味で)と一刀両断に語られることが多いかと思います。しかし、今回はその悪趣味監督ダーレン・アロノフスキーに注目してみたい。
 というわけでダーレン・アロノフスキー監督、ゼロ年代の怪作『レクイエム・フォー・ドリーム』を取り上げる。

 まず、アロノフスキー監督は人間や都市に潜む闇の存在をえぐりだし、観るものの神経を逆撫でするアバンギャルド演出が作風の作家です。これはデビュー作『π』や、『ブラック・スワン』にも顕著です。『ブラック・スワン』でも、背中から首筋にかけてがゾクゾクする感覚に襲われた方も多いはず。これこそが、まさにアロノフスキー演出の真骨頂。
 その悪趣味演出が、人物描写において異常なまでに炸裂したのが本作。

  
 『レクイエム・フォー・ドリーム』は現代都市生活者に見られる中毒症状一般についての考察であり、自滅してゆく人々の生態観察でもあります。掃き溜めのようなコニーアイランドで、いつかどこかにある幸福を夢見ながらドラッグにおぼれてゆく若者たちと、大好きなテレビ番組に出演しようとダイエット薬中毒になり、現実と虚構の区別のつかなくなって行く主人公の母親の姿を描いゆきます。

 『レスラー』などでも精神と肉体の感覚世界にアプローチしているアロノフスキーは、原作の地獄絵図とその作風と摺合せ、非常に痛みを込めて描写することに成功しています。精神ゆがみは肉体に反映し、肉体のゆがみは精神に影響を及ぼしてゆく。この精神と肉体の関係は切り離すことは決してできない。だからこそ、人は心や身体に痛みを感じたとき、薬や酒やテレビなどに夢中になることで精神と肉体を麻痺させることを欲し、一時的な恍惚におぼれる。

 しかし、この恍惚こそが、「地獄の底に通ずる穴の入り口」で、そう悟ったときはもう遅い。後ろに戻ることはできず、覚めることのない恍惚感を求めて、現実からの逃避の欲望は加速します。


 「夢」や「あいまい」を心どこかに持ち続けているのが本作の登場人物たちです。しかし、現実ではそんな主人公たちが生きにくい。本作には「夢」や「あいまい」を拒絶する絶対的な現実世界への厳しき認識があります。

 でも一方では、人間は夢をもつことなしに生きることのできない生き物です。『レクイエム・フォー・ドリーム』は、そうした矛盾した現実から逃避した彼らを、悲しき哀れな生き物として描きます。それには、「残酷な現実」と悦楽に浸ることでそこから必死に逃げる主人公たちへの「優しさ」を感じるのです。タイトルの意味するところはそこです。「夢のための鎮魂歌」。

 「シネマ秘密基地」では、僕が観て、責任をもっておすすめできる作品しか取り上げていないつもりです。しかし、『レクイエム・フォー・ドリーム』は100%の肯定でもっておすすめすることはできません。しかし、それぐらい凄まじい破壊力を持った作品といえます。アロノフスキーの地獄巡りに同行する勇気のある方は是非ご鑑賞ください。

2011年6月11日土曜日

《ぼくらのゼロ年代。》 エレファント

2003・アメリカ
監督:ガス・ヴァン・サント
製作総指揮:ダイアン・キートン、ビル・ロビンソン
製作:ダニー・ウルフ
脚本:ガス・ヴァン・サント
出演:ジョン・ロビンソン、アレックス・フロスト、エリック・デューレン、イライアス・マッコネル、ジョーダン・テイラー、ティモシー・ボトムズ・・・

ガス・ヴァン・サント監督の『エレファント』は、1999年4月20日にコロンバイン高校で起きた銃乱射事件を描いた、カンヌ映画祭のパルムドールと監督賞を受賞した異色作です。

 ガス・ヴァン・サントという監督の特徴を一言で表すなら、「空気」を撮る監督、言えるのではないか。
 本作ではいわゆる「物語」は破棄されており、通常の映画なら飾れるであろう装飾物の一切を削ぎ落としています。その代り、映画は、端正な色彩と構図、最小限の音響、意味のない会話、登場人物をまとう独特の空虚感・・・など厳選された要素の積み重ねによって構成され、その中からガス・ヴァン・サントが紡ぎだすのは「空気」そのもの。つまり、あまりに透明であるがゆえに、かえって不穏さを感じさせる「空気感」なのです。

 中心となる数人の登場人物は、平凡な日常を生きている匿名的な高校生たちです。彼や彼女らの歩く姿を、カメラは背後から見守るかのようにロングショットで追い、校庭、廊下、教室、食堂、図書館、写真室などを移動しつづける。高校生活を送った人ならだれにでも、当時あった日常。それが実にリアル。その中を立ち込めるのは、誰もが経験したあの穏やかで透明すぎる空気。観るものはスッと映画の中に入む。
 しかし、一瞬カメラはふいにスローモーションに切り替わり、そしてその中に「不穏さ」をとらえる。それまで流れていた日常の時間を変質させ、その場に忍び寄る「不穏な空気」を明白にします。

 映画は一見、穏やかに進行しながら、徐々にその緊張感を高めてゆき、クライマックスへの悲劇へと不気味なくらい自然に流れ込む・・・。



 興味深いと感じたのは、映画の中で登場する高校生がまるで社会の縮図のように、一人一人異なる問題に対面していること。例えば、トイレに行くにもダイエットのために食べたランチを吐き出すのにもグループでいかなければ仲間はずれにされてしまう女子生徒の友情に対する価値観。アルコホリックな父親の存在に苛立ち、さらに校長に呼び出されて叱責され、さらに苛立ちをつのらせるジョン。写真という熱中できるものを持ち、ひたすらシャッターを押すことに没頭するイーライ、容姿もスタイルも冴えず、何をするにも愚鈍で他の生徒からは嘲笑の的になっているミシェル。アメフトの花形プレーヤーで、恋人とはラブラブ、そして学校の女子生徒からの憧れの的であるエリック。そしてバイオレントなテレビゲームに夢中になり、学校や他の生徒を恨んで仕返しを企むアレックス。登場するこれらの主要な高校生たちは、知り合いであったり、廊下ですれ違うだけで顔を何回か見たことのあるくらいの関係であったり、様々で、人物はそれぞれ均一に淡々と描写されます。
 しかし一律に言えるのは、それぞれがそれぞれに内なる闇を抱えている若者たち。人物をそれぞれ均一に淡々と描写することでそこはかとなくそれを伝えます。
 これらの描写も僕は実にリアルに感じた。というのは、数年前まで自分の日常にあったものがそのまま描かれている感じがしたからだ。

 つまり、誰がヒーローでアンチヒーローなのかという構図は完全に崩壊させています。カメラは事件を起こす2人も、射殺される高校生も、全て均等に映し出し、「誰が悪いか」を決めようとはしません。むしろ銃を乱射した2人こそ、社会の生み出したものや価値観の犠牲になった哀れな、報われるべき子供たちであることを痛感させられます。放任主義で、親子間の会話はあまりない彼らは、親の与えたカードで何でも手に入ってしまう。彼らががライフルをインターネットで買っていることを両親はよもや知るよしもない。



 ガス作品の共通のテーマは前述した「空気」と、「若者」です。彼は、ある時代のある場所のある時間に流れていた空気を若者に託して再現しようと試みたのです。それは、『マイ・プラーベート・アイダホ』、『ジェリー』、『ラスト・デイズ』、『パラノイドパーク』・・・などにも顕著です。しかし、もっともその空気感が強力なのは『エレファント』かと。

 世紀末の白茶けた日常を、何の希望も展望もないまま、あてどなくさまようしかなかった若者たちの背中の表情に、穏やかな抑圧と、秘められた狂気を見出し、そこに浮かび上がるであろう疑問を、疑問のままに観客と共有することで、不条理な運命にもてあそばれた世紀末からゼロ年代を浮彫りするのでしょう。




PS
 ガス・ヴァン・サント監督の最新作『レストレス/Restless』には、われらが加瀬亮くんが出演しています。日本では12月に『永遠の僕たち』というしょうもない邦題で公開されるそうです。ともあれ、3年ぶり新作ということもあり非常に楽しみですね。



12月公開予定 『永遠の僕たち』

 

2011年6月2日木曜日

《ぼくらのゼロ年代。》 メルキアデス・エストラーダの3度の埋葬

 
2005・アメリカ・フランス
監督:トミー・リー・ジョーン
製作総指揮:リュック・ベッソン、ピエール=アンジェ・ル・ポーガム
製作:マイケル・フィッツジェラルド、トミー・リー・ジョーンズ
脚本:ギレルモ・アリアガ
出演:トミー・リー・ジョーンズ、バリー・ペッパー、フリオ・セサール・セディージョ、ドワイト・ヨワカム、ジャニュアリー・ジョーンズ、メリッサ・レオ・・・

アメリカ・テキサス州。国境にほど近い荒れ地で、メキシコ人カウボーイ メルキアデス・エストラーダの死体が見つかる。純朴なメルキアデスを心から愛していた友人ピートは、深い悲しみに襲われながらもある約束を思いだす。「俺が死んだら、故郷ヒメネスに埋めてくれ」。ひょんなことから、メルキアデスが国境警備隊員のマイクに殺されたことを知ったピートは、マイクを拉致。彼に無理矢理メルキアデスの死体を担がせ、メキシコヘの旅に出発する・・・。

 ゼロ年代、隠れた秀作といったところだろうか。

 監督はなんと名優、トミー・リー・ジョーンズ。彼といえば、思い浮かぶのは、アメリカの荒野の過酷の中に生きてきた男の深くしわだらけの顔。でも、僕の中で彼といえば『メン・イン・ブラック』のKですかね。BOSSのCMの宇宙人ジョーンズさんといえば、思うかぶ方も多いはず。
 そんな男の中の男、トミー・リー・ジョーンズの鮮烈な監督デビューは果たした作品が『メルキアデス・エストラーダの3度の埋葬』。カンヌで男優賞と脚本賞の2賞に輝き、期待を裏切らない、いぶし銀の男の映画に仕上がっている。

  物語は、テキサスのカーボーイのピート(トミー・リー・ジョーンズ)と、流れ者のメキシコ人のメルキアデス・エストラーダの出会いから始まる。共に働くようになった彼らは、すぐに打ち解けて親友になります。メルキアデスはピートに言います。
「俺が死んだら故郷のヒメネスに埋めてほしい」
 一方、新しくこの土地の国境警備員に就任したマイク(バリー・ペッパー)は、勘違いからメルキアデスを射殺してしまいます。メルキアデスはコヨーテに食い荒らされた状態で発見されますが、事件はもみ消され、早々に捜査は打ち切られてしまう。ピートは親友との約束を果たすため、むりやりマイクを拉致し、旅に出発する。

 脚本を手掛けたのは、アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ監督とのコンビで知られるギレルモ・アリアガ。『アモーレス・ぺロス』、『21g』、『バベル』など、時間軸と場所が複雑に入り組んだ群像劇の中で、人間関係を組み立て直すことによって生と死の境界線の溶けたような、本来矛盾するはずのリアリズムと寓話性が共存する物語を紡ぎだしてきました。
 本作でそのスタイルを維持しながら、決して言葉や表情に感情を表すことのない西部男たちや、そんな男たちの社会に生きる女たちの、メランコリックな心象の向こう側にある人間そのものの孤独を浮かび上がらせています。

 こんな場面があります。妻を故郷に置いてきたため、孤独に耐えかねているメルキアデスを見かねて、ピートは彼に白人女性を紹介します。不法移民の彼は一緒に街に出ることで、国境警備隊に見つかることを心配しているのですが、ピートの「俺に任せておけ、なに大丈夫さ。」といった表情に、なにとなしに安心するというシーンです。これこそが友情の証というやつです。男泣きもの。
 
また、あまりに手厳しい主人公にいたぶられながら人生を学んでいくマイクを演じたバリー・ペッパーの役どころも面白い。人間として未熟な男、大人になりきれていない男、という役柄を体当たりでありながら、観客にこのマイクの気持ちがものすごくよく分かると思わせてしまう。というのは、劇中における「人間の弱さ」そのもののアイコンがこのバリー・ペッパー扮するマイクなのです。

 友情とは何か。贖罪とは何か。信仰とは何か。信念を持つこととは何か。・・・
実に多くの問題提起をしながら、それらをひとつひとつ作品の中で消化し、最終的には答まで提示する。同時に男の仁義や友情といったテーマを扱いながらもセンチメンタルなタッチを抑え、ラストにはいずこへと去っていく主人公の背中がほろ苦くも崇高な余韻を残す。まさにゼロ年代版男泣き映画の傑作でしょう。

PS
映画の中で出てくる盲目の老人役は、なんとザ・バンドの リヴォン・ヘルム。恐ろしくいい味出しています。