2011年1月29日土曜日

特集三部作『ロード・オブ・ザ・リング 二つの塔』


2002・アメリカ、ニュージーランド
監督:ピーター・ジャクソン
製作総指揮:マーク・オーデスキー、ボブ・ワインスタイン、ハーヴェイ・ワインスタイン
製作:ピーター・ジャクソン、バリー・M・オズボーン、フラン・ウォルシュ
脚本:J・R・R・トルーキン、フラン・ウォルシュ、フィリパ・ボウエン、ピーター・ジャクソン
出演:イライジャ・ウッド、イアン・マッケラン、ヴィゴ・モーテンセン、ショーン・アスティン、バーナード・ヒル、クリストファー・リー・・・
 
 では、特集第二回、『ロード・オブ・ザ・リング 二つの塔』。ロード・オブ・ザ・リング好きとしては、その中毒性を決定づけたの間違いなく本作、『二つの塔』でしょう。  あらすじは、

 中つ国では闇の勢力がますます力を増大させている。そんな中、離ればなれとなってしまった旅の仲間たちは三方に分かれたまま旅を続けるのだった。2人だけで滅びの山を目指していたフロドとサム。そんな彼らの後を怪しげな人影が付け回す…。サルマンの手下に連れ去られたメリーとピピンは隙を見つけて逃げ出し、幻想的なファンゴルンの森でエント族の長老“木の髭”と出会う…。一方、アラゴルン、レゴラス、ギムリの3人は、メリーとピピンを追う途中で、国王がサルマンの呪いに苦しめられているローハン王国へとやって来る…。

 前作『旅の仲間』の完成度だけに、観る側の期待値としてはかなり高いものになっていたと思います。しかも、シリーズ二作目はコケるというジンクスさえ映画界には存在する。しかし、『二つの塔』はしっかりと僕たち観る者を指輪物語中毒に陥らせてくれました。
 前作では、これまで見たことがあるようでなかった夥しい造形や情景、クリーチャーそして建築といった世界観の創造によって徐々にじわじわとその世界観に引きずり込んでくる。だが、『二つの塔』ではもはや造形美を駆使してまず観客を圧倒し、徐々にその理性を取り払っていくという手続きはとられず、戦いに次ぐ戦いの、灰色に支配された不穏な世界へと一気に誘う。確かに、激しい戦闘は映画力を誇示するのにふさわしいものです。
 まるで、ジェームズ・キャメロンがリドリー・スコットのSFホラーの古典『エイリアン』の続編、『エイリアン2』を創るうえで、無駄な説明を省き、「戦争」をテーマに傑作を生みだした手法をほうふつさせます。

 三部作を序破急で言うと、『破』にあたる本作。いよいよ善悪の対立が表面化してきます。序である『旅の仲間』を引継ぎ、主要な登場人物が次々スクリーンに現われ、戦闘も局地戦であった『旅の仲間』から、大規模なろう城戦へスケールアップします。その戦争のスケール感、迫力が半端じゃない。月並みな言い方ですが、まるで自分のすぐ横で戦闘が繰り広げられている感じです。(そして、『急』にあたる『王の帰還』では、それが全面戦争へ)
 整然と並び雄叫びを轟かせる大量のウルク=ハイはひとたび攻撃に出るや、うじゃうじゃと汚い虫のように蠢き、それが蹴散らされ叩き切られるさまは快感だし、エンターテインメントの名に恥じぬぶった切りのめった打ちには大満足。極めつけは、身内を殺された怒りに猛り狂うエントが反撃するシーン。僕の中で最も快感をもたらしてくれた映画体験のひとつです。

 一方、前作に萌芽としてあった、人々の心に落とされる暗い影を掘り下げています。人間には正邪の判断は辛うじてできるだろうが、神でない限り善悪という絶対的な価値観で何をも真っ二つに裁くことはできないという究極のジレンマのなか、先に進むしかないフロド、サム。その姿を単刀直入に見せる演出に抜かりはない。そして、そこで登場するのがゴラム、まさに人間の狡猾さや欲望が投影されたかのようなキャラクター。しかし、ゴラムと指輪を介し合わせ鏡のように向き合うフロドは、彼に対しどこか信頼や主従ではない複雑な感情を抱き妙な連帯関係が生まれます。まあ、これが『王の帰還』への重要な伏線なのですが・・・。

 指輪を捨てるという世界で最もしんどい旅の苦しみの部分を描く本作ですが、物語の荒々しいエネルギーは生々しく心に刻まれるでしょう。






ほら、観たくなってきたでしょ。   さぁ、TSUTAYAにダッシュ!!!


次回、いよいよ、最終章『王の帰還』です。(勝手にテンション上がってますっ。)
 

2011年1月27日木曜日

特集三部作『ロード・オブ・ザ・リング 旅の仲間』


2001・アメリカ・ニュージーランド
監督:ピーター・ジャクソン
製作総指揮:ピーター・ジャクソン
製作:ピーター・ジャクソン、バリー・M・オズボーン、マーク・オーデスキー、ティム・サンダース、フラン・ウォルシュ
脚本:J・R・R・トルーキン、フラン・ウォルシュ、フィリパ・ボウエン、ピーター・ジャクソン
出演:イライジャ・ウッド、イアン・マッケラン、ヴィゴ・モーテンセン、ショーン・アスティン、ショーン・ビーン、イアン・マッケラン・・・
                         
 久々に特集やりたいと思います。 ロード・オブ・ザ・リング、、2001~2003年に公開され、映画が誕生した20世紀の終わりと映画新時代21世紀の幕開けを告げた記念碑的作品と言っていいでしょう。

 「本作は3部作のため、ひとつひとつの作品で批評することはできない。」なんて言われますが、僕はそうは思わない。本特集では、思いっきり続編と切り放して一本として評価させて戴こうと思います。特に長いシリーズの一作目は後の作品があるからと単体の評価から逃げやすい傾向があるので逃がしたくないのです。それに、シリーズと言っても一本の映画は一本の映画ですからね。

 あらすじは、
はるか昔。闇の冥王サウロンは世界を滅ぼす魔力を秘めたひとつの指輪を作り出した。指輪の力に支配された中つ国では一人の勇者がサウロンの指を切り落とし、国を悪から救った。それから数千年の時を経た中つ国第3世紀。ある時、指輪がホビット族の青年フロドの手に渡る。しかし、指輪を取り戻そうとするサウロンの部下が迫っていた。世界を守るためには指輪をオロドルイン山の火口、“滅びの亀裂”に投げ込み破壊するしか方法はない。そこでフロドを中心とする9人の仲間が結成され、彼らは“滅びの亀裂”目指し、遥かなる冒険の旅に出るのだった・・・。

 この作品は、スター・ウォーズとともに僕が映画というものはまってしまったきっかけともなる作品で、思い入れは人一倍かと思います。なので、前もって言っときますが、この評価はものすごく偏愛的なものとなるでしょう。(申し訳ありません。)

 小学校5年生だったかな。いとこに誘われて、地元のできたばかりのシネコン(当時は感動したな~)に観に行ったのがこの作品との出会いでした。そこから、すっかり中つ国の世界観にハマッてしまった今日この頃です。そんな中、映画が終わってさて帰ろうかとした時、知らないおばさんが係員の人に「これはぁ、今昼休みなんですか?」と尋ねていました。

 そんなわけで、本作『旅の仲間』は、作品そのものが三部作のプロローグです。しかし一本の映画として壮大で奥の深いエンターテイメントであり、見所が多く次作への期待を上手く残しているといえます。
 まぁ、一方またもや原作のダイジェストに過ぎないというありきたりな批判があります。しかし、ここには純粋に映画的な躍動があります。自分のイメージを捨て、心を無にすれば純粋に非現実空間に浸れます。もっとも、この映画を見下す者にとっては『風と共に去りぬ』も『アラビアのロレンス』も長編小説の短縮版にすぎないのでしょう。エピソードは有機的に連なり、想像力で映像の「行間」を補えば神話世界は限りなく膨らんで、178分など瞬く間に過ぎ去るリズムがここには流れています。

 指輪は世界を滅ぼす力を秘めるゆえ、この世が闇に覆われないよう、遥か彼方の火山の亀裂に指輪を投げ「葬り去る」ことを目的に旅は始まります。そして、最も大きな魅力が、20世紀半ばに生まれた現代の神話は、指輪をあらゆるものに置き換えて解釈することも可能なほど示唆に富み、その映像は指輪の魔力を存分に映し出すことでしょう。
 
 また、ここぞというときに走り出すカメラは観る者を高揚させ、物語に引きずり込まずにはおきません。もちろん原作者のあふれんばかりの空想力を映像化するためにデジタル技術は不可欠なのですが、個性的な役者たちの肉体や美しい自然の風物を生かしたうえで処理を施した映像は、昨今の乱用されセンス・オブ・ワンダーを失ったデジタル特撮に一石を投じるものとなっています。

 僕が観ていて最もショッキングだったシーンは、裂け谷にてフロドと指輪の前所有者であるビルボが再会する場面です。それまで穏やかだったビルボがフロドの胸に輝く指輪を見たとたん、「わしの指輪!」と悪魔のごとき形相になる瞬間があるのです。一瞬のシークエンスにもかかわらず、その一瞬に人間の欲望のすべてが凝縮されているようで、背筋がゾッとします。

 前半は、登場人物の説明的台詞が多いのですが、それは仕方がないことだと思うし、後半はそれらを挽回するかのようにアクションと冒険の乱れ撃ちとなるのでかなり爽快です。




 唯一、欠点を上げるならば、上映時間が短いことでしょう。いつまでもこのファンタジックなでもどこかノスタルジックな世界観に身を委ねたいのです。

2011年1月24日月曜日

グーニーズ

 
1985・アメリカ
監督:リチャード・ドナー
製作総指揮:スティーブン・スピルバーグ、フランク・マーシャル、キャスリーン・ケネディ
製作:リチャード・ドナー、ハービー・バンハード
脚本:クリス・コロンバス
出演:ショーン・アスティン、ジェフ・コーエン、コリー・フェルドマン、キー・ホイ・クァン

 ここのところ、少し内省的な映画が続いたので、今回は思いっきり楽しい映画でいきたいと思います。やっぱり、映画の基本はエンターテイメントですからね。   
 というわけで、『グーニーズ』!!!

 スピルバーグ製作総指揮の冒険活劇。あらすじは、
オレゴン州の港町アストリア。13歳のマイキー・ウォルシュ(ショーン・アスティン)は、兄のブランド(ジョシュ・ブローリン)と家でくすぶっていた。その頃、警察からフランシス・フラテリ(ジョー・パントリアーノ)が脱獄、母親のママ・フラッテーリ(アン・ラムジー)の運転する車で弟のジェイク(ロバート.ディヴィ)とともに逃走した。マイキーの家へ、友達が続々と集まってくる。スペイン語ができて口のうまいマウス(コリー・フェルドマン)、ドジでいつも腹をすかしているチャンク(ジェフ・コーエン)、発明家のデータ(キ・ホイ・クワン)の3人である。彼らとウォルシュ兄弟は、自分たちをグーニーズと呼んでいた。ウォルシュ家は借金のかたに家屋をゴルフ会社に差し押さえられ、明日には家を出なくてはならない。屋根裏部屋で見つけた古地図に書かれているスぺイン語をマウスが解読したところ、海賊片目のウィリーが隠した宝の地図が・・・!

 そんなん子供っぽいっしょ。っていうか、ヌーベルヴァーグとかじゃないと映画じゃないよなってとがってる人!!ま~、ちょっとこっち来なさい。

 これは、エンターテイメントととして非常に完成度が高い作品です。製作総指揮がスピルバーグ、監督は『スーパーマン』や『リーサルウェポン』などを手掛けたリチャード・ドナー、脚本はハリポタシリーズやホームアローンシリーズの監督で知られるクリス・コロンバス。とまあ、エンターテイメントとしてはこの上ない完璧な布陣です。20年くらい前の作品なのに、とにかく魅力が色あせない素晴らしい出来です。CG全盛の、今のアニメみたいな映画には正直飽きてしまったという人にとっては、むしろ新鮮な気持ちを抱くでしょう。

 テーマも普遍性があります。誰もが持ってる、もしくは持っていた、冒険の心がテーマですからね。「明日見る空は、この街の空じゃないんだ」って言われたら、そりゃ、冒険するしかないっしょ!!!


 一般にこういう映画は子供向けというレッテルが貼られ、大人が観るにはくだらないという先入観が生まれがちですが、僕は、そんな気持ちを捨てて素直に観ることが出来れば、とても楽しめる作品だと思います。これは、むしろスピルバーグは『E.T』や『フック』、『インディ・ジョーンズ』などにも言えることだと思いますが、子供向けというよりも、成長すると共にどこかに忘れた「大切なもの」を自分たち大人に思いださせてくれるために、これらの作品を作ってくれたのではないかと感じます。

 子供には、もちろんですが、僕たち大人にとっては、「夢を与えてくれる」というよりも「夢を思いださせてくれる」作品ではないでしょうか。

 彼らの思いは大切な存在を守るために不条理な社会のルールと自分にとって不可欠な存在、それを守るための闘いを演じてくれます。

 マイキーを演じたショーン・アスティンは『ロード・オブ・ザ・リング』のサムだったんですね。ひとりでビックリしてました。

毎日、満員電車にゆられて、上司の愚痴ばっか聞きいてても楽しくないでしょ。少しくらい夢みたっていいじゃん。
 




 さぁ、お宝探しに出かけようぜ!!!

2011年1月22日土曜日

赤ひげ

 
1965・日本
監督:黒澤明
製作:田中友幸、菊島隆三
脚本:井手雅人、小国英雄、菊島雄三、黒澤明
出演:三船敏郎、加山雄三、山崎努、二木てるみ、団令子、桑野みゆき、根岸明美、香川京子、土屋嘉男、江原達怡・・・

 ブログ開設以来、初の黒澤作品ですね。はいっ、拍手っ!! 
パチパチパチパチ!!!

 日本映画史上最高の大巨匠、黒澤明監督。『羅生門』、『生きる』、『七人の侍』、『用心棒』・・・。名作を上げればきりがありませんが、僕が最も好きな黒澤作品は、『赤ひげ』です。(その時の気分によって、変動するのですが。)
 でも、どの作品が好きかと問われて返答に困るのは、黒澤明監督は様々なジャンルに挑み、作品を作るごとに新たな手法を加えて、作品ごとに違った魅力があるから故なんですよね。(でも徹底した正攻法で、安定感がある。)
 
あらすじは、
長崎で和蘭陀医学を学んだ青年・保本登は、医師見習いとして小石川養生所に住み込むことになる。養生所の貧乏くささとひげを生やし無骨な所長・赤ひげに好感を持てない保本は養生所の禁を犯して破門されることさえ望んでいた。しかし、赤ひげの診断と医療技術の確かさを知り、また彼を頼る貧乏な人々の姿に次第に心を動かされていくのだった・・・。

 すべての黒澤作品の底流に流れるのは、徹底したヒューマニズムでした。そして、狂おしいほどの人間観察、人間賛歌を徹底的に描く本作は、その黒澤ヒューマニズムの極地です。また、『用心棒』をほうふつさせる三船敏郎(赤ひげ)のアクションシーンもあり、そしてなにより『七人の侍』『生きる』などで見せた黒澤明のそのヒューマニズム溢れる叙情的な演出が炸裂しています。つまり、あらゆる意味でそれまでの黒澤作品の集大成であり、ひとつの到達点なのです。

 『赤ひげ』という題ですが、物語の主人公は保本(加山雄三)といっていいでしょう。物語は、長崎で和蘭陀医学を学んだ、いわゆる当時のエリート気質の強い保本が、赤ひげが所長を務める小石川養生所を訪れるところから始まります。保本は思います。「俺はこんなところで働くために医者になったんじゃないっ!!!」 それもそのはず、江戸の最下層で苦しむ貧民のための医療施設ですから小石川養生所の環境が劣悪なこと。患者ももはや死を待つのみといった状態。僕が未熟ということもあるのですが、そんな病人に冷たい保本に思わず感情移入してしまうくらいです。

 でも、そこにこそ、このドラマの醍醐味があります。つまり、観る者は、映画冒頭から最後まで一貫して、「保本」なのです。赤ひげは、「人間の一生で臨終ほど荘厳なものはない。それをよく見ておけ。」と言います。しかし、保本同様観る者も、最初その意味はさっぱり分からない。でも、多くの人生、死に立ち会うことで、ラストには、まるで自分が保本と一緒に成長した気にさえなります。

 多くの人生を絡めていくのですが、それぞれの話が極めて密度が濃く充実したものとなっており、冗長なところがまったくないため3時間があっというまに終わってしまいます。

 自分の稼ぎを皆に与えてしまうほど気の優しい左官佐八(山崎努)、まるで「高瀬舟」のような佐八の生き様決して彼が犯した間違いではないことに贖罪しその罪を一生背負って生きていく。他人に優しくする事で、許しを請い続ける・・・。が、赤ひげは言うのです。「偉い奴が死ぬ」、と。また、保本の最初の患者となる岡場所で働かされていた身よりのない娘、おとよ(木てるみ)・・・。

 「病の根源は貧困と無知にある。」、と言う赤ひげ。また、医学は誰のものでもない、とも。ヒューマニズムを描く一方で、医療の理想と根本が赤ひげの口により語られているのが印象的です。さらに赤ひげは言います。「あらゆる病気に治療法はないのだ。」、と。終盤、毒を飲んで死に掛けている子ども・長坊。しかしまかないの女たちが井戸の底に向かって「長坊、帰ってこい。」と呼び続けます。そしてそれが聞こえたかのように長坊は毒を吐いて助かるのです。科学を超えたところに因果の本質がある、そんなことを暗示しているシーンです。

 この映画は黒澤映画における最後の「白黒映画作品」「三船出演作品」「泥臭いヒューマニズム作品」となっています。この映画を最後に黒澤は三船敏郎と決別し、黒澤は東宝との専属契約を解除して、海外の製作資本へと目を向けることになります。やはり、この後の黒澤は変わりますよ。僕は、この赤ひげが本当の意味で最後の黒澤映画だと思っています。





 それと同時に最後の戦後映画(日本映画黄金期)といえるでしょう。というのは、 

 僕は戦後映画は、とくに当時の社会背景が大きく関係があると思っています。戦争が終わり、GHQの占領下に置かれた日本は、映画でも様々な規制が加えられます。まず時代劇禁止。戦争に追い込んだとされる思想は徹底的に規制されます。なので、当時の銀幕のスターたちは、刀をピストルに持ち替えるのです。(ピストルはOKなんだ・・・。) そして、ついに1952年、占領から解放されると同時に、53年『七人の侍』、54年『東京物語』、『ゴジラ』が製作され、また同年、東映からは中村錦之助、東千代之介、大映からは勝新太郎、市川雷蔵がデビューします。つまり、日本映画界は、史上最大の黄金期へと突入します。そこで、黒澤明をはじめ、小津安二郎、溝口健二、成瀬巳喜男、内田吐夢、川島雄三…など映画界の至宝たちが次々に傑作を量産していきます。

しかしそんな時代も終わりをつげます。1965年東京オリンピック、第二次世界大戦で敗戦した日本が、再び国際社会に復帰するシンボル的な意味を持ち、大きな節目となるものです。それは、社会を投影してきた映画にも言えることでした。そこでの大きな出来事として、黒澤の三船との決別と東宝との契約解除があると思います。つまり、『赤ひげ』という映画は、黒澤・三船コンビ最後の映画であると同時に、最後の戦後映画と言えるでしょう。

 そうなることを黒澤監督は知っていたかのように、『赤ひげ』にかける思いは凄まじかったようです。「私は、この『赤ひげ』という作品の中にスタッフ全員の力をギリギリまで絞り出してもらう。そして映画の可能性をギリギリまで追ってみる。」という熱意で、当時のどの日本映画よりも長い2年の歳月をかけて映画化しています。作品の制作費の調達のために自宅を抵当に入れて、売却してしまうほど。また、本作には保本の両親役には笠智衆と田中絹代をキャスティングしています。これは、黒澤監督の先輩である小津安二郎監督作品の看板役者であった笠智衆と、溝口健二作品に多数出演した田中絹代を自分の映画に出演させる事により、2人の日本映画の巨匠監督への敬意を込めたと語っています。
 

やはり、その後の『若大将』シリーズの隆盛などを見ると、日本映画は少し変わっていきますよね。




 僕は、黒澤作品の大きな魅力の一つとして貧しい人々への限りなく温かいまなざしがあると思います。そのまなざしは『赤ひげ』にもはっきりと表れています。映画黄金期に颯爽と別れを告げ、これから戦後復興から経済発展へと進む日本を予測して、「あの貧しい時代を忘れるなよ。」と警鐘を鳴らしているかのようにとれますね。

 ひとつの時代の終焉と、日本映画の頂を観た気がします。


 

2011年1月18日火曜日

ミスティック・リバー

2003・アメリカ
監督:クリント・イーストウッド
製作総指揮:ブルース・バーマン
製作:クリント・イーストウッド、ジュディ・ホイト、ロバート・ロレンツ
脚本:ブライアン・ヘルゲランド
出演:ショーン・ペン、ティム・ロビンス、ケビン・ベーコン、マーシャル・ゲイ・ハーデン、ローラ・リニー、ローレンス・フィッシュバーン

 混沌の闇。この世界に住む人間の闇が何よりも恐ろしく、観る者の心をこれとないほど苦しく締め付ける本作はまさに映画が生み出す極限の衝撃です。
 『許されざる者』や『ミリオンダラー・ベイビー』など、痛切な過去を抱く複雑な人間模様を映画描き出すことに定評のあるクリント・イーストウッド。僕の最も好きな監督の一人ですが、中でも本作『ミスティック・リバー』は、別格です。
 観終わった後にしばらくその衝撃で声が出せなくなるでしょう。しかも、「ズドーン」というわかりやすい衝撃ではなく、心の奥のまたその奥を少しずつ少しづつ締め付けられる感じです。

あらすじは、
ボストンの貧困地区。路上ではジミー、デイブ、ショーンの3人組がボール遊びに興じていた。ボールが排水溝に落ちたとき、不審な車が少年たちの傍に停まる。警官を名乗る2人連れは、3人の内からデイブだけを車に乗せ、静かに走り去った。数日後、デイブは暴行を受け、無残な姿で発見される。それから25年、同地区で殺人事件が発生。被害者はジミーの娘だった。捜査を担当するのは、今は刑事となったショーン。やがて捜査線上にデイブの名が浮かぶ。事件は3人の過去を弄ぶようにして、非情な物語を導いてゆく…。

 
 もちろんキャストの演技も凄まじいのですが、イーストウッドの演出手腕が半端じゃない。例えば、物語冒頭の子供時代のシークエンス。セメントに名前を刻んでいく男の子三人。そこに一人の男が現れる。手錠と警官バッジが彼の腰で揺れ、どうやら彼が警官だとわかると、子供の目線であるロー・アングル(低い位置からのショット)。それにより、画面には威圧感で満たされ、恐ろしい間と空気で異様な空気を醸し出していきます。汚い後部座席、ためらうデイブ、憤慨する男、闇の中で光るキリストの指輪、恐怖と涙でいっぱいのデイブ、去りゆく車と友人二人、そこで暗転し、まるで悪夢のようにデイブの誘拐が明かされ、レイプされるデイブが映り、逃げ出した彼は窓から影の存在として姿を現し、友人らは静かに合図を送る・・・。
 暗転が見事に本作の闇と恐ろしい空気を創りだし、台詞の意味などわからなくても、視覚的に聴覚的に全ての状況と恐怖とこれから迫りくる闇を体感させてしまうのです。まさに傑作。その闇を観客もデイブも引きずったまま、社会という闇の中でそれぞれ生きている三人が順番に映し出され、真の心の闇を今度は彼らの恐ろしい演技と映画的表現で見事に彩られます。

 また、この作品はイーストウッドが時と空間の映画作家であることも証明してくれました。本編において、身をもたれさせていればいつ崩れかけてもおかしくない粗末な木造テラスが、かなりの時間を挟んで二度登場します。一度目は作品の冒頭、少年たちの遊びを見守るともなく見やっていた父親たちが、仲間の一人(デイブ、つまりティム・ロビンス)の誘拐を知らされるという不吉な舞台装置としてです。二度目は、娘を殺されたジミー(ショーン・ペン)がどうにもいたたまれなくなり、テラスで一人酒を飲んでいるところに、犯人であってもおかしくないと観客が思い始めているデイブ(ティム・ロビンス)がやってくる場面です。(ティム・ロビンスは子供時代にひどい仕打ちにあった張本人である。しかも仮に、ティム・ロビンスが犯人であったならば、ショーン・ペンを慰めるという行為は、仲間への裏切り以外何でもない。う~む、観客としてこれに立ち会うのはつらい。)

 つまり、このテラスにおける可視化は、冒頭ではテラスに座る父親を見上げていた少年を、同じようにそこに座らせることで、ジミーにあたりを見晴らす視点を与えているのです。そしてその瞳はが見据えるのが絶望ならば、かつてテラスにいた父親たちも何かしらの悩みを抱えていたに違いない。そこで、彼らがこの土地に住む者の逃れがたい暗さを反復しているだけに見えます。つまり、このテラスは、土地の暗さに向かって開かれたジミーの窓にほかならない。

また、このテラスの既視化によって、イーストウッドは、25年という歳月を動かぬ時間として人物たちにまとわりつかせています。時間は無惨なままに流れそびれていて、そのことがこの2つのシークエンスに凝縮されているのです。

 ショーン・ペン、ティム・ロビンス、ケビン・ベーコン、これほどの癖の強い俳優陣が、演技合戦というよりも、むしろひとつの川のごとく大きなひとつのうねりを形成しているような印象を受けました。
アカデミー賞主演男優賞、助演男優賞をとるのも当然です。

 このようないたたたまれなさの極地のような映画が、21世紀しかもハリウッドでダーティー・ハリーによって撮られたことにただただ驚愕するしかない。



 ところで、mysticとは、秘密のという意味だそうです。




 秘密、殺人の真相、誤った殺人、少年時代の忌まわしい記憶。
それはすべて川の底に沈んでいます・・・。

2011年1月15日土曜日

ニュー・シネマ・パラダイス


1989・イタリア
監督:ジュゼッペ・トルナトーレ
製作総指揮:ミーノ・バルベラ
製作:フランコ・クリスタルディ
脚本:ジュゼッペ・トルナトーレ
出演:フィリップ・ノワレ、ジャック・ペラン、サルヴァトーレ・カシオ、マルコ・レオナルディ、アニェーゼ・ナーノ、ブリジット・フォッセー


 ついにこの映画を・・・。僕に映画というものを今まで以上に愛させてくれた作品。映画の素晴らしさを知ってもらいたい人に、僕がまず推す映画はこの『ニュー・シネマ・パラダイス』です。

 やっぱり映画っていいですよ。今もよくわからないでいる。ラストで何故あれほど沢山の涙が出たのだろう。

現在のローマ。夜遅く帰宅した映画監督のサルヴァトーレ・ディ・ヴィータ(ジャック・ペラン)は、留守中に母(プペラ・マッジョ)からアルフレードが死んだという電話がかかっていたことを知らされる。その名を耳にし・・・。

 あらすじは、敢えてここまでしか書きません。本当に観てほしいから。

 でも、ネット上では、映画好きこそ観る映画。映画上級者は見るべき映画。な~んて、書かれています。
 しかし、僕は、普段映画にあまり触れない方々にこそ見てほしい。だって、この映画には、映画そのものの魅力がギュ~と凝縮されているから。
 映画の魅力って何?という質問に対しての答えは人それぞれでしょう。もちろんそうだし、そうあるべき。でも、僕は映画の魅力って
「自分と違う人間の人生をで体感する」
ということだと思っています。観る人は、その物語の主人公の人生の一部を疑似体験する。この人の生きるさまこそが人を一番感動させる。これは100年の映画史が出したひとつの答えのような気がします。

 そして本作。この作品ほど主人公の一生に入り込める作品も少ないでしょう。
この映画には、あるひとりの男の人生の酸いも甘いもがつまっています。
・映画に対する愛の物語
・映写技師アルフレードとの友情の物語
・悲しくもメルヘンチックな美しい愛の物語
・いつでも温かく見守っていた母の物語
言い出すとキリがありません。
ラストの繋ぎ合わせたキスシーン観ている側はトトと共にアルフレードと過ごしたあの「懐かしい時代」を回想し、もはや自分のものとなっているトトの夢、想い出に涙するのです。


 ふつう、映画批評は客観的な視点からです。でも、この映画に関しては、あまりに自分を重ね合わせてしまいすぎて、そんなことできませんよ。(涙)



 おっと・・・。映画への愛を語るあまり、投稿内容がかなりイタいものとなってしまいました。 どうか、ご了承を。でも、本当に観てほしい。

 TOHOシネマズの午前十時の映画祭で『ニュー・シネマ・パラダイス』が上映されます。昨年は行けなかったので、今年こそはスクリーンで観て号泣して来たいと思います。






 一人の映画好きとしてこの作品に出会えたことを心から感謝します。

2011年1月12日水曜日

ジョゼと虎と魚たち


2003・日本 
監督:犬童一心
製作:久保田修、小川真司
脚本:渡辺あや
出演:妻夫木聡、池脇千鶴、上野樹里、新井浩文、新屋英子
音楽:くるり

 言わずと知れた邦画ラブストーリーの名作。僕はこの映画は、日本映画のラブストーリーというジャンルにおける一つの到達点におくべき作品だと思います。大学1年のときに観たのですが、泣きましたね~。ふとしたキッカケで恋に落ちたごく普通の大学生と不思議な雰囲気を持つ脚の不自由な少女、そんな2人の恋の行方を大阪を舞台にキメ細やかな心理描写と美しい映像で綴っています。

 あらすじは
 大学生の恒夫は、ある朝、近所で噂になっている老婆が押す乳母車と遭遇する。そして、彼が乳母車の中を覗くと、そこには包丁を持った少女がいた。脚が不自由でまったく歩けない彼女は、老婆に乳母車を押してもらい好きな散歩をしていたのだ。これがきっかけで彼女と交流を始めた恒夫は、彼女の不思議な魅力に次第に惹かれていくのだが…。

 原作はごく短くて、登場人物も主人公とジョゼと婆さんの3人しかいないのですが、渡辺あやの脚本は周辺人物を多彩に散りばめて作品に厚みをもたらしています。見事な脚色です。いわゆるボーイ・ミーツ・ガールものなのですが、異色なのはヒロインが歩けない身体障害者であるという事でしょう。このジョゼ、障害者だからと言っていじけているわけでなく、ズケズケ物は言うし、料理はうまいし、学校へ行かない代わりに、ゴミ捨て場で拾ったいろんな本を読みあさって、ヘタな学生よりも知識を得ているというのが面白い。因みに、ジョゼとは、愛読するフランソワーズ・サガンの小説の登場人物の名から借りたものです。また、料理を作り終えると椅子から勢い良くドスンと飛び降りるというのもジョゼの性格をうまく表現しています。脚本からか演出からなのか分かりませんが、細かいところまでつくり上げられています。 

 一方、妻夫木聡演じる恒夫は、は「女であればとりあえず抱いておきたい」的思考回路で脳ミソが構成される典型的男子学生。タバコのキャンペーンガールをやっている元カノをみると声をかけずにはいられないし、その元カノがジョゼを引っ叩いたと言われてもその子を怒れないし、むしろコスチュームが似合うことを褒めてしまうし、でもこんな男はモテるのです。(ちくしょ~)世の中はこういうしょうもない、相手のかゆいところに手を「思わず伸ばして」しまう、いわゆるかっこいい優男にだめんず女が入れ替わり立ち代りだまされるという構図で男女関係の基本が成り立っているのです。

 おっと、つい熱くなってしまいました。まぁ、それはおいといて。そんな恒夫も最初は同情心からですがジョゼの家に通うようになっていきます。そして、やがてジョゼの真っ直ぐで強い生き方に興味を持って行く。ジョゼの婆さんが亡くなった時、互いに惹かれる二人は肌を合わせる。

 でもジョゼにとって幸せな日々が続くが、恒夫は昔の彼女とヨリを戻し、やがて別れの日がやって来ます。(映画上で、別れは予測されたこと。これは、見ることのできた動物園の虎と、見ることのできなかった水族館の魚によるメタファーとして提示されます。)
恒夫は、一言言います。
「ぼくが逃げた。」
このくだりで僕はこの作品に惚れてしまいました。男(特に若い頃)は「肝がすわらない」性を痛いほどよくつかんでいる。何か興味の対象があると覚悟なくそこに首を突っ込み、成り行きで楽しみ、「責任」という言葉がはっきりと見えてくると、徐々に後ずさりをする、男の性を。

 しかし、犬童監督は、恒夫を決して批判的には描かない。なぜなら、それが人間というものの弱さであり、悲しさなのです。恒夫の行動の価値判断は、あくまで観客にゆだねられます。それに対し、その事をまた運命として受け止め、あっさり恒夫を許すジョゼの潔さ。「身体障害者のくせに彼氏とるな。」とキッパリとジョゼに言いはなつ香苗(上野樹里)もある意味、覚悟がある。


 また、本作の音楽を担当しているのは、くるり。とても自然に映像とマッチしている。コアなくるりファンの僕が認めるのですから!!


 人間というものの不思議さ、弱さ、強さをそれぞれを瑞々しく、限りなく優しい眼差しで描いた脚本、演出、演技が自然に溶け合った、爽やかな恋愛映画であり人間ドラマの秀作でしょう。

2011年1月8日土曜日

ピアニストを撃て


1960・フランス
監督:フランソワ・トリュフォー
製作:ピエール・ブラウンベルジェ
脚本:フランソワ・トリュフォー、マルセル・ムーシー
出演:シャルル・アズナヴール、マリー・デュボワ、ニコル・ベルジェ、ミシェール・メルシエ

 すごい映画を観てしまった。

 冬休みに早稲田松竹のフランソワ・トリュフォー特集に行ってきました。2回も高田馬場に通って、計5本のトリュフォー作品を観てきました。

 いや~、『大人は判ってくれない』から『日曜日が待ち遠しい!』(ファニー・アルダン、きれいだったな~)まで、名作ぞろいでしたね。でも、中でも僕が大好きだったのは、個人的にフィルムノワールが大好物ということもあり、『ピアニストを撃て』でした。

 この作品は、衝撃のデビュー作『大人は判ってくれない』と彼の名声を不動のものにした傑作『突然炎のごとく』の間に撮られた監督長編2作目で、それらの作品の陰になりがちです。たしか、アメリカでは「突然炎のごとく」が成功したために、あとから公開されたぐらいの扱いです。しかし、この映画がいい映画なんです。評価はやや低めですが。トリュフォー監督の映画への愛が作品の節々から滲み出ています。

 苦闘する者も多い二作目ですが、監督はB級路線を敢えて貫きながら、彼独自のセンス溢れる作品に仕上げています。
 
 トリュフォーのアメリカ映画好きは本人が公言していることで、本作では、ハワード・ホークス、ジョン・フォード、アルフレッド・ヒチコック先生、ニコラス・レイなどへの関心をあからさまに示してくれています。そして、この映画は、彼自身が言うように、アメリカ映画特にB級ギャング映画へのオマージュがところどころに描かれ、1940年代のアメリカ映画の、いわゆるフィルム・ノワールを彼流にアレンジしながら再現しています。 あらすじですが、以下になります。

 人生に諦めを抱いているシャルリーはパリの場末のカフェ「マミイ」でピアノ弾きをしながら幼い弟フィードを養っている。彼にはあと二人身持の悪い弟がいた。或る冬の夜、その弟シコが助けを求めて来たことから、またしても不幸は襲った。ギャングをまいて逃げてきたシコにかかわりあうのが腹立たしかったシャルリーも、店に現れたギャングを見てやむを得ず協力した。支配人プリーヌは大いに興味を抱いた。店の給仕女レナはそんなシャルリーに思いを寄せ、彼の心の扉を開かせたいと願っていた。ある日、壁の古いピアノ・リサイタルのポスターを見た彼は、レナに過去を語り始めた。彼は本名をエドゥアル・サロヤンといい、国際的に有名なアルメニア出身のピアニストだった。

 積極的に外へ出て行ってロケを存分に行い、これにより開放的な世界を広げ、室内や押し込められた場末のカフェとの落差をより強く浮かび上がらせている点。ヌーヴェル・ヴァーグらしい撮影方法及びカットを多用している点。

 トリュフォー流のフィルムノワールですが、これらについては若々しい映像が全篇を覆いつくしたゴダール監督の『勝手にしやがれ』が盟友トリュフォーにも伝染しています。ゴダール監督が映画の文法を破壊したため、センセーショナルな脚光を浴びるようになりました。それによって、トリュフォー監督も自分の好きなようにやることに、躊躇が無くなったのかも知れません。この作品からは表面的なB級感よりも、むしろそれを楽しんでいるような余裕が伺えます。

 
 また、無駄な会話を緊張するシーンで入れるのもリアリティーの増す、効果的なやり方です。誘拐されたり、監禁されたり、首を絞められたり、銃撃されたりと80分弱の作中でとても忙しくトラブルに巻き込まれていくシャルリーですが、犯人達や揉め事の相手との会話がとても滑稽で現代の作品でも十分に通用するほどの面白さがあります。刹那的に起こる事件の数々と、その間を埋める無意味な会話の滑稽さが、この作品のストーリー上の「肝」です。マリーを誘おうとするシーンでのシャルルの頭の中での迷いがとても可愛らしい。
 しかし、それと同時に暗い過去を抱えるシャルリーは、実に哀愁に満ちています。そして、クライマックスでは、同じ過ちを繰り返してしまう・・・。

 人間には避けられぬ運命があり、この世は輪廻転生であるという人生哲学さえ感じられます。

 映画冒頭とラストシーンのシャルリーのピアノを演奏する場面のリンクは観る者に様々な意味を喚起させます。


 しかし逆に、本作を観た方は、トリュフォーの好きなことが沢山つまっているため、少々まとまりが悪いと感じるかもしれません。でもこれは、ヌーヴェル・ヴァーグ独特の手法で、映画作家が、退屈で良く出来た映画を作ろうとせずに、自分自身の無秩序な経験を表現しようとしているからです。これらの映画は、未解決で、説明不能で、不調和な要素に満ちている。僕はそれは、鑑賞の邪魔にはならず、むしろ数々の先輩映画監督への感謝や映画への愛を基に、新しいものへの挑戦ととれ、観ていて実に楽しかった。


 本作で、自分が好きだったヒッチコック先生やホークス監督への敬意を捧げているのみならず、一人の映画作家として、確固とした才能の基盤を持っていることを示してくれました。影響を受けてきた作家への感謝と、彼自身の作家としての個性の目覚め。ゴダールが先に行ってしまったことへの焦りにイライラしつつも、監督本人が楽しそうに撮っている作品は、映画への愛が観る者にも伝わってくるように思います。
 




 

2011年1月1日土曜日

ラヂオの時間


1997・日本
監督と脚本:三谷幸喜
製作:村上光一、高井英幸
出演:唐沢寿明、鈴木京香、西村雅彦、戸田恵子、井上順、渡辺謙ほか

 新年あけましておめでとうございます。読者6人(僕の家族含め)と言われるこのブログも皆さんのおかげで無事新年を迎えることが出来ました。2011年も少しでも多くの方に「映画っていいな~」って思ってもらえることを目標に進めて参りますっ!

 新年一発目の一本は、家族、友達、恋人と一緒に観て面白くて楽しい映画です。三谷幸喜監督、処女作『ラヂオの時間』。とにかくこの映画は誰か一緒に笑えて、楽しい。お正月に家族で、なんて時にはもってこいの映画です。もちろん一人でも。

 あらすじは、
 初めて書いた脚本がラジオドラマに採用され、やや緊張気味の主婦・みや子。まもなく生本番というタイミングで、主演の大女優が役名をリツコから、メアリー・ジェーンにしたいと言い出した。大女優の機嫌を損ねたくないプロデューサーは、彼女の役名だけでなく他の登場人物の名も勝手に外国人名に変更する。その事がきっかけで、出演者たちは口々に不平不満を言い出す。そのうち、メロドラマだった脚本がやがてアクションものへと変わっていくのだった。

 本作のシチュエーションの最たる部分は、やはり
・ラジオドラマの生放送であること
・そして、ラジオ局内だけのストーリーであること
でしょう。生放送であることが、スリル満点のハプニング劇を生み出し、ラジオ局内に限定したことが、シンプルで洗練された会話劇を生み出しています。

 さらに登場人物一人一人がとっても魅力的です。いかにも「業界人」といった面々のそれぞれの個性が実に愉快。スポンサーや声優たちへの気配りに終始している定見のない編成マン(布施明)。その配下で放送さえできれば内容なんてどうでもいいプロデューサー(西村雅彦)。オリジナルを無視して「早い、拙い」で支離滅裂な台本を書き上げるの作家(モロ師岡)。こうるさいごますりの腰巾着マネージャー(梅野泰靖)。「上を見上げる」という表現はおかしい、「上を見る」だといって譲らない几帳面なアナウンサー(並木史郎)等々数え上げればきりがないが、登場人物の面白さはもちろん出演者の演技が光っているからでもあります。ほかにも細川俊之、戸田恵子、近藤芳正、井上順、小野武彦、梶原善、唐沢寿明、藤村俊二、渡辺謙といった有名・無名の一癖も二癖もある役者たちがそれぞれの持ち味を存分に発揮しています。

 限られたシチュエーションを創り出し、そこでのおかしな人間模様を少し斜めから見る。まさに三谷コメディの原点であり真骨頂。

 始め観たときは、気付かない方も多いかと思うのですが、トラックの運転手役で渡辺謙が出演しています。これは、三谷幸喜監督が敬愛する伊丹十三監督の作品『たんぽぽ』へのオマージュです。


 『ラヂオの時間』。観るときっと今年一年頑張ろうかなって思える作品です。



 では、2011年があなたにとって素晴らしい年となることをお祈り申し上げます。