2012年6月10日日曜日

ミッドナイト・イン・パリ


2011・スペイン・アメリカ
監督:ウディ・アレン
脚本:ウディ・アレン
製作総指揮:ハビエル・メンデス
撮影:ダリウス・コンジ
出演:オーウェン・ウィルソン、マリオン・コティヤール、レイチェル・マクアダムス、キャシー・ベイツ、エイドリアン・ブロディ、カーラ・ブルーニ、マイケル・シーン・・・


 老練ウディ・アレン、御歳76歳。『アニー・ホール』、『マンハッタン』、『カイロの紫のバラ』、『ハンナとその姉妹』、『マッチポイント』…。他では味わえないウッディ印の傑作を世に送り出してきた映画界の偉人。『ハンナとその姉妹』をこのブログで取り上げた時には先生とお呼びした、ウディ・アレン。容姿も含めて、ボクは御大ウッディ・アレンの大ファンなのです。

 さて、今作『ミッドナイト・イン・パリ』。僭越ながら、傑作を超えて、名作の域に達したこの作品の正体を記事にまとめたいと思います。


1.ウディ・アレンのニューヨーク、そしてウディ・アレンのパリへ。~ノスタルジーと迷子~

 ウディ・アレンがついにパリに乗り込む。しかも「パリ」をその名に冠した作品で。これだけで映画ファンは、よだれダラダラ(笑)
 ウディ・アレンと言えば、ニューヨーカー。ホームグラウンドのニューヨークを切り取ってきた作家です。『アニー・ホール』、『マンハッタン』、『ハンナとその姉妹』…。いわゆる、自身のフィルモグラフィのゴールデン・エイジ。しかし、ウディ・アレンのパリはウディ・アレンのニューヨーク以上に魅惑的でした。どうやら、最も美味しいご馳走は最後にとっておく主義らしい。

 パリにやってきた主人公ギル(オーウェン・ウィルソン)は、ハリウッドの売れっ子脚本家。なのに華やかな現代のアメリカよりも古き良き時代、1920年代のパリをひそかに愛している。彼は現代では懐古主義と軽蔑されるノスタルジーを彼の中で大事にしているのです。そしてある夜、タイムスリップしてその憧れのパリへと迷い込む。


 そこは、パリが最も華やかなだった時代1920年代。そこで出会うのは、スコット・フィッツジェラルド、ヘミングウェイ、ガートルード・スタントン、パブロ・ピカソ、T・S・エリオット、サルバドール・ダリ、ルイス・ブニュエル・・・。そしてピカソの愛人アドリアナ。

 そもそも、なぜこんなにも豪華な偉人達が同じ時代同じ年に存在したのか。その理由は、彼らが俗に言うロスト・ジェネレーションだからです。フィッツジェラルド、ヘミングウェイらは、第一次大戦で人間の残虐さに直面したが故に、社会と既成の価値観に絶望し、その中で生きる指針を失い、社会の中で迷った世代です。そんな彼らは新天地を求めて、パリへ集まった。彼らは「失われた世代」と訳されるが、それは実は誤訳で、正式な意味は「迷子の世代」です。

 期せずしてタイムスリップしたギルは初対面にも関わらず、彼らに温かく迎えられる。それも異常なまでに。(笑)そして彼らがギルに同じセリフを繰り返し掛ける。
「あなた、迷子なのね。」と。
おそらく、彼らが、現代に馴染めずパリの夜道で迷子になり1920年代に流れ着いたギルに、同じく社会から取り残された自らと妙な親近感を覚えたからであろう。

 この作品にぶつけられた想い。それは、新しい物をつくりだす人、そしようともがき苦しむ人にとって、「今にうまく言葉にできないような疑問を持ち、こうあるべきだった理想を想像する」ことが如何に重大かだ。つまりそれは「迷子」になること。
 「単なるノスタルジーではなく」という紋切型の表現があるようにノスタルジーは今軽蔑されている。でもノスタルジーって今に疑問を持つことなんじゃないのかな。そうゆうことを、この皮肉屋のおじいちゃんは画面にぶつけているのではないかと。


2.ファンタジーとリアリティの融解。~映画づくりを熟知した匠の業~

 ウディ・アレンの映画では、その映画そのものの空気の担い手が女優がまといます。 例えば、『カイロの紫のバラ』では現実逃避癖のオドオドしたミア・ファローな空気。『それでも恋するバルセロナ』では情熱的で奔放なペネロペ・クルスな空気。『マッチ・ポイント』では官能的で破滅が香るスカーレット・ヨハンソンな空気。

 では『ミッドナイト・イン・パリ』はどうだろうか。それは間違いなくマリオン・コティヤールのファンタジックで幻夢的な空気。観客を恋に落とすほどの破壊力をこの女優は確かにまとっています。ボクもマリオン・コティヤールに恋をしてしまいました。

 『ミッドナイト・イン・パリ』はそんな煙に巻く夢の映画。 だがこの幻夢的な空気を成立させる為の、土台と骨組みが半端ではない。料理でいうなら、仕込みと下ごしらえが素晴らしい。

 鼻につく文化人気取りの男、右翼的でブルジョワな婚約者の親父・・・。とにかく主人公にからむ登場人物や場所の設定も、ぴたりとツボを押えて念入り。すると、自然に虚構であるファンタジーが生きてくる。完璧な虚構を支えるのはリアルな細部だという黄金律をウディ・アレンは熟知しています。ハッキリに言って、この映画の唯一無二の尋常じゃない心地良さは、ファンタジーとリアリティが溶けて混ざり合う感覚にこそある。だから、ボクら観客は主人公とともに、恋するほどの幻夢と戯れることができる。


3.『ヒューゴの不思議な発明』、『アーティスト』・・・。
  そして『ミッドナイト・イン・パリ』。


 御大ウディ・アレン。御歳76歳にして、自身最高のヒット作を作り上げる。スコッセシの『ヒューゴの不思議な発明』にせよ、ザナビシウスの『アーティスト』にせよ、古い時代への回帰の潮流が今あるのかもしれない。さらに、これらの傑作に共通するのは、「ファンタジー」の再考だ。映画本来の醍醐味は「現実では味わえない体験」だと考えます。
20年代後半からがサイレントの過渡期であったように、今は映画の過渡期にあるのかもしれない。だから、映画の未来に対し自問する時期にきていて、未知のものに直面した今、自分たちの出自に帰る思いがあるのだろうと思うのです。現実では味わえない夢の体験という映画へと。
 

2012年2月12日日曜日

ドラゴン・タトゥーの女


2011・アメリカ・スウェーデン 日本公開中
監督:デヴィッド・フィンチャー
脚本:スティーヴン・ザイリアン
原作:スティーグ・ラーソン
出演:ダニエル・クレイグ・ルーニー・マー、クリストファー・プラマー、ジュリアン・サンズ、ステラン・スカルスガルド、スティーヴン・バーコフ、ロビン・ライト・・・

昨日、デヴィッド・フィンチャー監督『ドラゴン・タトゥーの女』を日劇にて観てきました。予想以上の逸品に感動したので、レコメンドさせていただきます。ネタバレは避けますのでご安心を。

まず前知識としての、あらすじです。
  月刊誌「ミレニアム」で大物実業家の不正行為を暴いたジャーナリストのミカエル(ダニエル・クレイグ)。そんな彼のもとに、ある大財閥会長から40年前に起こった兄の孫娘失踪(しっそう)事件の調査依頼が舞い込む。連続猟奇殺人事件が失踪(しっそう)にかかわっていると察知したミカエルは、天才ハッカー、リスベット(ルーニー・マーラ)にリサーチ協力を求める。

原作はスティーブ・ラーソン氏による言わずと知れたベストセラー超濃厚ミステリー『ミレニアム』。これは母国スウェーデンで三部作として映画化されています。





 で今回、ハリウッド映画化のデヴィット・フィンチャー版『ドラゴン・タトゥーの女』。

まず、オープニングクレジット。グロテスクで生々しくも芸術的な映像美。ツェッペリンの『移民の歌』(アアアーアってやつ)を背景にうごめく漆黒の液体。これはリスベットの心の傷を表現してるとか。兎にも角にも、超絶カッコイイ。映画にフィンチャー印がくっきりと刻印され、物語は幕を開けます。


物語の軸となるのは、リスベットとミカエル。
・リスベット(ルーニーマーラ)⇒ドラゴン・タトゥーの女。ゴスファッションに身を包み、背中にドラゴンのタトゥーを刻む23歳の天才ハッカー。分厚い鎧の中に渦巻く憎悪、孤独、暴力を携える。
・ミカエル(ダニエル・クレイグ)⇒雑誌『ミレニアム』のジャーナリスト。大物実業家ヴェンネルストレムの不正を暴きながらも名誉毀損で有罪判決を下され、ハリエット事件の真相解明を依頼される。ダニエル・クレイグだけにとてもセクシー。

今回、フィンチャー自身が語っているように映画の中心軸に据えられているのは、この二人の関係性。そして、何といっても、リスベットの存在の大きさ。このドラゴン・タトゥーの女であるリスベットが魅力的なこと。パンクな天才的ハッカーとしてだけでなく、瞬時の情報分析能力を有し、レイプ魔豚野郎に天誅を下す反骨精神。ダークでアウトローな鎧の隙間からもれる人間臭さや恋心。それをそこはかとなく醸し出すルーニー・マーラとそれを演出するフィンチャーは流石。


 高福祉国家、幸福社会であるスウェーデン。しかし、それの裏側に蠢くのは女性差別、性犯罪、暴力・・・。どんな社会でも存在する生きることを許されないアウトロー。その象徴がリスベット。この個人の反抗が腐敗した社会への反駁へと繋がり、映画そのもののエネルギーとなって、観る者に迫ってくる。

 リスベットというキャラクター像を造形しただけでも、この映画の価値は確かにあると思う。ニューダークヒロインと言われているが、まさに。

 フィンチャーの世界観醸成力も素晴らしい。ダークブルーで冷えきった北欧の世界、土地特有の空気が、作品にキレを持たらしている。ポランスキーの『ゴースト・ライター』にも似た空気感。

 一方、フィンチャーファンとしては『セブン』などの彼の凶暴性を期待してしまうかもしれない。でも、本作において、それはあくまで物語上のファクターであり、本筋のミカエルとリスベットに主眼を置いて逸品に仕上げている。原作へのリスペクトが感じられ、これはとても好印象。フィンチャーの職人としての貫禄ですかね。

 凍てつくほど冷たいダークな空気こそフィンチャーの持ち味。『セブン』、『ゲーム』など初期衝動でこそ顕著です。『ベンジャミン・バトン』や『ソーシャル・ネットワーク』では手堅く人間ドラマとして傑作ですが、やっぱり個人的にはフィンチャーには冷たいダークさを期待してしまう。


 『ドラゴン・タトゥーの女』はそんな凍てつくダークな空気が画面から醸し出す。リスベットの造形然り、登場人物は本当に魅力的。登場するキャラを好きなる感覚。これはシリーズもので最重要なこと。一方で、民族主義、権力腐敗など、批判的社会派ドラマとしても成立。


 フィンチャーが彼のフィルモグラフィーの中で培ったあらゆる要素が有機的に結びついた集大成的作品。傑作と言える知的ダーク・ミステリーでした。




こちらがその超絶かっこいいオープニング・クレジット。