1957・アメリカ
監督:シドニー・ルメット
製作:レジナルド・ローズ、ヘンリー・フォンダ
脚本:レジナルド・ローズ
出演:マーティン・バルサム、ジョン・フィードラー、リー・J・コッブ、E・G・マーシャル、ジャック・クラグマン、エドワード・ビンズ、ジャック・ウォーデン、ヘンリー・フォンダ、ジョセフ・スィーニー、エド・ベグリー、ジョージ・ヴォスコヴェック、ロバート・ウェッバー
ニューヨークの法廷で殺人事件の審理が終わった。被告は17歳の少年で、日頃から不良といわれ、飛び出しナイフで実父を殺した容疑だった。12人の陪審員が評決のため陪審室に引きあげてきた。夏の暑い日で彼らは疲れきっており、早く評決を済ませ家に帰りたがっていた。第1回の評決は11対1で有罪が圧倒的、しかし、判決は全員一致でなければならなかった。無罪は第8番ただ1人。彼は不幸な少年の身の上に同情し、犯人かもしれないが有罪の証拠がないといった…。
この作品は討論劇として世界的といえる傑作中の傑作中の傑作であり、この作品の影響は今も息の長い活動を続ける社会派サスペンスの名匠シドニー・ルメット監督の駆け出しとなった作品です。おそらく邦画ディスカッションものといえば『羅生門』、洋画ディスカッションものといえば本作『十二人の怒れる男』でしょう。
この映画を観てまず痛感することは、制作費をいくらかけようとシナリオや展開つまり脚本が面白くなければ全く意味がないということです。それくらい『十二人の怒れる男』の脚本は素晴らしい。邦画、洋画問わず、エンタメ娯楽映画、芸術文芸映画問わず、優れた作品の基本には優れた脚本があるのは明らかです。そこで、これも洋画、邦画問わずいえることだと思うのですが、最近、人物設定や構成が不十分で行き届いておらず脚本のデキが拙いものが目立つような気がするのは僕だけでしょうか。
まず『十二人の怒れる男』では、舞台として、窮屈で殺風景な陪審員室しか映し出されません。よって、脚本の拙さを美しい映像や迫力ある場面で誤魔化すことはまず出来ません。また、出演者たちもおじさんばかりで、アイドル女優などで観客を惹くこともできないヒロイン不在の映画です。つまり、このような“制約”ある環境では脚本の出来不出来が“命”といえます。もし、『十二人の…』の脚本がひどかったらそれこそ世界各地で暴動が起きるでしょう。
以前『ラジオの時間』の投稿でも触れましたが、“制約”のなかでお話自体の面白さを最大限に増幅される手法は三谷幸喜氏の得意とするもので、それの証拠に本作のリメイク『12人の優しい日本人』を制作しています。
この映画にでてくる12人の陪審員は、結局最後まで名前は分かりません。お互いを番号でのみ知っているだけなのです。ですが、12
評決は全員一致でなければなりません。有罪の評決が出れば、少年は電気いすで死刑になることが決まっています。そんな中、1回目の投票では、ヘンリー・フォンダ扮するただ一人の陪審員だけが「無罪」を主張します。圧倒的多数の11人は「有罪」でした。陪審員たちの空気は、明らかにヘンリー・フォンダに冷たい。「なぜ1人だけ、みんなと違うことを言うんだ・・・。どこにでもいるんだ、そういう奴って・・・。」 「人の命を5分で決めてもし間違っていたら? 1時間話そう!」
会議で1人異議を唱える者が主役のヘンリー・フォンダなので、やがては主人公の主張が支持されて全会一致になるのは予想できるでしょう。にもかかわらずリアリズムや説得力を増しながら最後まで観客をドキドキさせて行く映画力はスゴイ。
いかに、自分達は先入観と偏見に満ちていて、それを通さずに物事を考えることがいかに難しいかを、本当に思い知らされます。もしもあの時、あの場にたった1人でも「無罪」を主張する勇気ある陪審員がいなかったら、一人の命が奪われてしまっていた。
話し合いの場で 全員が先入観や思い込み、偏見、いい加減な気持ちで評決を下し、それが人の命を左右させてしまう。異論を唱える者に空気が読めないというレッテルを貼り付け、自分自身が納得できる意見を持つことに畏縮してしまう。本作は、徹底した討論が人の命をも救うという民主主義の素晴らしさを描いている反面、多数派が少数派を迫害し、成り行きのままの「予定調和」に陥る民主主義の恐怖をもあぶりだしています。
お互いに名も知らないものたちがそれぞれ分かれ去っていくシーンは、本当に良い余韻を残してくれます。
映画の道を志す人、小説の道を志す人は本当に観てほしい映画です。
今回は法学部生らしい映画を紹介してみましたっ!
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