監督:アルフォンソ・キュアロン
製作総指揮:トーマス・エー・ブリス、アーミアン・バーンスタイン
製作:トーマス・エー・ブリス、ヒラリー・ショー、トニー・スミス、エリック・ニューマン、イエン・スミス
脚本:アルフォンソ・キュアロン、ティモシー・J・セクストン
出演:クライヴ・オーウェン、ジュリアン・ムーア、マイケル・ケイン、キウェテル・イジョフォー、クレア=ホープ・アシティー・・・
H・G・ウェルズ『タイム・マシン』、ジュール・ヴェルヌ『20世紀のパリ』に始まり、映画ではキューブリックの『時計仕掛けのオレンジ』、ギリアムの『未来世紀ブラジル』、ルーカスの『THX-1138』、キャメロンの『ターミネーター』、ゴダールの『アルファヴィル』、アンドリュー・ニコルの『ガタカ』・・・時代を牽引してきたSFクリエイターたちは揃って、徹底的な管理・統制により自由が奪い、住民を洗脳し、体制に反抗する者には治安組織が制裁を加え社会から排除するという暗黒の未来を描いたディストピア作品を創り出してきました。
そして、今、そんな歴代の巨匠たちのペスミスティックな遺伝子を受け継ぎ、独特の世界観を確立してディストピア作品を描ききる映像作家アルフォンソ・キュアロン。そのディストピア世界とは、西暦2027年、少子化を飛び越えて“無子化”の世界。この時代の人類最年少はなんと18歳。つまり18年間、新生児は誕生していないのです。原因は不明で、希望を失った世界には内戦やテロが頻発し、世界のほとんどの国家はことごとく壊滅状態。ほぼ唯一、強力な軍隊で国境を守る英国だけが、ぎりぎりの秩序を保っている状況。
あらすじは、
西暦2027年。ロンドンには移民が溢れ、当局は移民たちを厳しく取り締まっていた。街にはテロが横行し、全てが殺伐としていた。18年間、人類には子どもが誕生しておらず、人々は未来のない世界を生きていた。ある日、エネルギー省官僚のセオは、元妻・ジュリアンが率いる地下組織FISHに拉致される。彼らはセオを利用し、人類救済組織“ヒューマン・プロジェクト”に、人類の未来を担う一人の少女を届けようとしていたのだ・・・。
物語冒頭、冒頭セオ(クライヴ・オーウェン)がコーヒーショップでそれとなくテレビを見ている。内容は世界最年少の18歳の熱狂的なファンが刺されて死亡したというもの。コーヒーを買い、店から出て(その瞬間、ガラスのドアには店外の風景が美しく映っている。)歩道をゆっくりと左へと歩いて行く。手持ちカメラが180度転換され、コーヒーを置いた瞬間、さっきまでいたコーヒーショップが爆破。片腕がちぎれた女性がおくで悲鳴を上げている。次のカットでタイトルクレジット、「CHILDREN OF MEN」(原題)。これを観て、この映画がただならぬものであることは瞬時に感じ取ります。なんでかというと、これら一連の流れをワンショットで撮ってしまっているから。
本作『トゥモロー・ワールド』の凄まじいところは、なんといってもその映像技術《長回し》です。
現在、平均的なハリウッド映画では一時間あたり1000前後のカット割りが施されていると言われています。そして、映画を観ている人はカットが割られた瞬間に、あぁこれは映画なんだと認識します。なぜならカット割りとは映像作品独特の手法で、当たり前ですが、現実では目を瞑らない限りカット割りはないですよね。そこで、登場するのが長回しという技法です。この長回しは、途中でカットがとぎれないため、観るものを映像世界に引きずり込み、まるで主人公の横で映画の中で起きることをリアルに体験させることを可能にします。いわば「見せる画面」への究極の到達点的技術といえるでしょう。
しかし、実はこの《長回し》は悪魔の技法で、溝口健二『唐人お吉』からオーソン・ウェルズ、ワイラーを経由し、ゴダール、アンゲロプロス、アルトマン、デ・パルマ、相米慎二、そして黒沢清まで、《長回し》という悪魔は多くの映像作家を魅了してきました。しかし、特に複雑な移動撮影と併用される時には、リハーサル、時間、照明、演技、あらゆる犠牲と情熱により成り立つ贅沢の極みであり、プロデューサーには疎まれ、それによって身を破滅させた作家も後を絶たちません。
そして、本作『トゥモロー・ワールド』、『黒い罠』や『カリートの道』のような冒頭やラストのワンシークエンスだけではなく、あろう事か前編通して全員一致の協力体制の下に完璧にやってのけているのです。ヒッチコックの『ロープ』のような室内劇を除けば、これは完成度的、技術的に言って大作映画史上初といっていいでしょう。
長回しの名手溝口健二の全盛期を支えた脚本家、依田義賢氏は長回しは「強い力のこもった、凝縮した演技の凝集と連続がなければ画面は保てない」と言っています。
本作で例を挙げるならば、ジュリアン・ムーアが撃たれる約12分の長回しシーン。ここでは、非常に多くの出来事が連続している点が大きな特徴です。出来事は、例えばピンポン玉を口から口へと飛ばして受けたり、通行する車の前を絶妙のタイミングで斜面から滑り落ちて来た車が塞ぐといったもの。それら信じられない高度なアクション、特撮が訪れては去って行きます。
その信じられないというのは、時間と空間とのタイミングにおけるアクションの難易度が高いということです。例えば斜面を滑り落ちる車は、時間的に少しでもズレてしまえば長回しはすべてが「はいっ、最初からやり直し~。」なのであるし、ピンポン玉の口移しにしても、仮にあれが合成なり特撮だとしても、少なくとも画面上は見事に観るものを騙している。その難易度が高ければ高いほど、そこにひたすら「連続性の驚き」を実感せずにはいられないのです。前記の依田氏の上げた長回しの基本を実に忠実にクリアしているのが分かります。
今例に上げたシーンもかなりショッキングですが、なんと言ってもラストが、まぁ~~~、凄まじい。これはネタバレになるので書きません。実際に観てくださいとしか言えません。気がつくと、主人公の横に居ますよ。
一切のカタルシス、希望が排除された灰色の世界を通して、生命の神秘、命を授かることの尊さを(僕が言うのもくさいですが)を描ききった本作は、まさに何年かに一度の傑作です。
そんなとっても素敵なキュアロン監督の新作は、ジョージ・クルーニー、サンドラ・ブロック共演のSFスリラーらしいです。その名も『Gravity(グラヴィティ)』!!!
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