2005・アメリカ
監督:アン・リー
製作総指揮:ラリー・マクマートリー、ウィリアム・ポーラッド、マイケル・コスティガン、マイケル・ハウスマン
製作:ダイアナ・オサナ、ジェームス・シェイマス
脚本:ラリー・マクマートリー、ダイアナ・オサナ
出演:ヒース・レジャー、ジェイク・ギレンホール・・・
1963年、ワイオミング州ブロークバック・マウンテン。農場に季節労働者として雇われたイニスとジャックはともに20歳の青年。対照的な性格だったが、キャンプをしながらの羊の放牧管理という過酷な労働の中、いつしか精神的にも肉体的にも強い絆で結ばれていく。やがて山を下りたふたりは、何の約束もないまま別れを迎える。イニスは婚約者のアルマと結婚、一方のジャックは定職に就かずロデオ生活を送っていた・・・。
今回ご紹介する作品は『ブロークバック・マウンテン』。この作品は、男同士の友情を超えてしまった関係を描いているため、思わず観ることをためらってしまうかもしれません。しかし、この作品は、男同士の愛を貫いた2人を通して人間の“普遍の愛”を描く人間ドラマなのです。鑑賞後には、観る前に少し引いてしまっていた自分が馬鹿みたいに思えました。はたしてここまで人間の愛というものに正面から向き合い、最後まで徹底的に描いた作品があっただあろうか。
ちなみに僕にそっちの気はないです。
禁断の恋といえば、往年の『ロミオとジュリエット』、『うたかたの恋』、『
まず注目すべきは主演の二人、ヒース・レジャー扮するイニスとジェイク・ギレンホール扮するジャックのキャラクター設定。この二人はいわゆる“カウボーイ”として映画に登場します。“カウボーイ”といえば、セルジオ・レオーネ監督、イーストウッド監督作品に代表されますが、アメリカではもちろんのこと世界的な映画における“男”の象徴ともいえる存在です。しかし、この映画の中では、それが従来型の価値観や世間体、そして“しがらみ”を意味する皮肉なメタファーとして機能しています。イニスとジャックもそれにならい、立派なカウボーイを志して生きてきました。しかし、現実の彼らに職はなく、映画で見るようなカウボーイのカッコよさにはほど遠いのです。要するに、彼らは人生の“負け組”。そして、それは映画冒頭ではっきりと提示されます。
そんな2人は、まるで自分たちしかこの世に存在しないかのような壮大な自然の袂で、互いを援け合い、そして戯れるウチに、相手の心に一時の連帯感や友情だけでは括れない“何か”を強く感じ合い始めます。外は凍えるような寒さの夜のテントの中、2人がついに一線を越えて体を交わすシーンは、その生々しさというよりもむしろ、まるで心に欠けているものを互いの体を貪ることで補い合っているかのように見えます。それが、痛く、そして途轍もなく哀しい。
しかし、ただただ同性愛を描くだけでは観ていて全く感情移入できず、むしろ観た後に心地悪さを感じてしまいかねません。そこで本作では同性愛を外側からの視点も非常に大切にしています。例えば、次のシークエンスです。イニスが許婚者のアルマと結婚して二人の娘をもうけ、暮らしてるところへジャックが彼を訪ねて来ます。二人の関係は一気に再燃し、再会の抱擁の後で熱いキスを交わす。しかし、イニスの妻アルマはその一部始終を目撃していしまう。ここから、アルマは自分の夫がゲイでることを知りながら、その秘密を一人で抱きしめたまま何とか夫婦生活を続けようとする。そこで観るものはその「耐える女」の切なき姿に感情移入し、アルマの側からイニスとジャックの関係を見ることとなるのです。セックスの際、彼女が避妊を要求する場面があります。「生活費が足りないのでこれ以上は子供を埋めない」と彼女は言うのです。すると、イニスは「俺の子供を産みたくないのならお前とはしない」と怒ります。このシーンの生活云々というセリフの奥に潜むアルマの別の感情を、そこはかとなく感じさせる繊細なアン・リー監督の描写は絶品と言えます。
僕はこの『ブロークバック・マウンテン』に漂い観るものを決して逃さない凄まじいまでの“切なさ”は、行き場のない環境下での同性愛というものを内側と外側の両者から描き、さらに両者どちらにも感情移入させることに成功しているからなのではと思います。
たとえしがらみや世間体を捨てたことで孤独の深淵に追い詰められたとしても、たとえ世の中から冷たい視線を向けられて自分の味方がただの1人もいなくなったとしても、心の中に確かな“何か”があれば、人は、涙に暮れながらでも生きてゆくことができる・・・。涙を耐えながら噛みしめるようにつぶやくイニスの姿を映し出すラストシーンはそんなことを僕たちに教えてくれます。イニスを演じたのは、ヒース・レジャー。映画界は本当に大きな存在を喪ったのだと実感しました。
この映画は、同性愛を単純に描いたものではなく、それを通して社会の少数派への偏見や差別を浮かび上がらせているのだと思います。これは別に同性愛でなくともマイノリティーで、差別を恐れるあまり、自分に正直に生きることができない人間が周囲を巻きこむ悲劇だと思いました。差別が“世の中のしがらみ”でもいいんだと皆、他にどうしようもない人生を、それぞれ懸命に生きているのに、その姿が切ない。
鑑賞後、きっと頭の中から「偏見」の二文字は消えます。鑑賞後と鑑賞前、その人の価値観を変えてしまう力のある映画を僕たちは「良い映画」と言うべきではないのでしょうか。
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