2011年1月22日土曜日
赤ひげ
1965・日本
監督:黒澤明
製作:田中友幸、菊島隆三
脚本:井手雅人、小国英雄、菊島雄三、黒澤明
出演:三船敏郎、加山雄三、山崎努、二木てるみ、団令子、桑野みゆき、根岸明美、香川京子、土屋嘉男、江原達怡・・・
ブログ開設以来、初の黒澤作品ですね。はいっ、拍手っ!!
パチパチパチパチ!!!
日本映画史上最高の大巨匠、黒澤明監督。『羅生門』、『生きる』、『七人の侍』、『用心棒』・・・。名作を上げればきりがありませんが、僕が最も好きな黒澤作品は、『赤ひげ』です。(その時の気分によって、変動するのですが。)
でも、どの作品が好きかと問われて返答に困るのは、黒澤明監督は様々なジャンルに挑み、作品を作るごとに新たな手法を加えて、作品ごとに違った魅力があるから故なんですよね。(でも徹底した正攻法で、安定感がある。)
あらすじは、
長崎で和蘭陀医学を学んだ青年・保本登は、医師見習いとして小石川養生所に住み込むことになる。養生所の貧乏くささとひげを生やし無骨な所長・赤ひげに好感を持てない保本は養生所の禁を犯して破門されることさえ望んでいた。しかし、赤ひげの診断と医療技術の確かさを知り、また彼を頼る貧乏な人々の姿に次第に心を動かされていくのだった・・・。
すべての黒澤作品の底流に流れるのは、徹底したヒューマニズムでした。そして、狂おしいほどの人間観察、人間賛歌を徹底的に描く本作は、その黒澤ヒューマニズムの極地です。また、『用心棒』をほうふつさせる三船敏郎(赤ひげ)のアクションシーンもあり、そしてなにより『七人の侍』『生きる』などで見せた黒澤明のそのヒューマニズム溢れる叙情的な演出が炸裂しています。つまり、あらゆる意味でそれまでの黒澤作品の集大成であり、ひとつの到達点なのです。
『赤ひげ』という題ですが、物語の主人公は保本(加山雄三)といっていいでしょう。物語は、長崎で和蘭陀医学を学んだ、いわゆる当時のエリート気質の強い保本が、赤ひげが所長を務める小石川養生所を訪れるところから始まります。保本は思います。「俺はこんなところで働くために医者になったんじゃないっ!!!」 それもそのはず、江戸の最下層で苦しむ貧民のための医療施設ですから小石川養生所の環境が劣悪なこと。患者ももはや死を待つのみといった状態。僕が未熟ということもあるのですが、そんな病人に冷たい保本に思わず感情移入してしまうくらいです。
でも、そこにこそ、このドラマの醍醐味があります。つまり、観る者は、映画冒頭から最後まで一貫して、「保本」なのです。赤ひげは、「人間の一生で臨終ほど荘厳なものはない。それをよく見ておけ。」と言います。しかし、保本同様観る者も、最初その意味はさっぱり分からない。でも、多くの人生、死に立ち会うことで、ラストには、まるで自分が保本と一緒に成長した気にさえなります。
多くの人生を絡めていくのですが、それぞれの話が極めて密度が濃く充実したものとなっており、冗長なところがまったくないため3時間があっというまに終わってしまいます。
自分の稼ぎを皆に与えてしまうほど気の優しい左官佐八(山崎努)、まるで「高瀬舟」のような佐八の生き様決して彼が犯した間違いではないことに贖罪しその罪を一生背負って生きていく。他人に優しくする事で、許しを請い続ける・・・。が、赤ひげは言うのです。「偉い奴が死ぬ」、と。また、保本の最初の患者となる岡場所で働かされていた身よりのない娘、おとよ(木てるみ)・・・。
「病の根源は貧困と無知にある。」、と言う赤ひげ。また、医学は誰のものでもない、とも。ヒューマニズムを描く一方で、医療の理想と根本が赤ひげの口により語られているのが印象的です。さらに赤ひげは言います。「あらゆる病気に治療法はないのだ。」、と。終盤、毒を飲んで死に掛けている子ども・長坊。しかしまかないの女たちが井戸の底に向かって「長坊、帰ってこい。」と呼び続けます。そしてそれが聞こえたかのように長坊は毒を吐いて助かるのです。科学を超えたところに因果の本質がある、そんなことを暗示しているシーンです。
この映画は黒澤映画における最後の「白黒映画作品」「三船出演作品」「泥臭いヒューマニズム作品」となっています。この映画を最後に黒澤は三船敏郎と決別し、黒澤は東宝との専属契約を解除して、海外の製作資本へと目を向けることになります。やはり、この後の黒澤は変わりますよ。僕は、この赤ひげが本当の意味で最後の黒澤映画だと思っています。
それと同時に最後の戦後映画(日本映画黄金期)といえるでしょう。というのは、
僕は戦後映画は、とくに当時の社会背景が大きく関係があると思っています。戦争が終わり、GHQの占領下に置かれた日本は、映画でも様々な規制が加えられます。まず時代劇禁止。戦争に追い込んだとされる思想は徹底的に規制されます。なので、当時の銀幕のスターたちは、刀をピストルに持ち替えるのです。(ピストルはOKなんだ・・・。) そして、ついに1952年、占領から解放されると同時に、53年『七人の侍』、54年『東京物語』、『ゴジラ』が製作され、また同年、東映からは中村錦之助、東千代之介、大映からは勝新太郎、市川雷蔵がデビューします。つまり、日本映画界は、史上最大の黄金期へと突入します。そこで、黒澤明をはじめ、小津安二郎、溝口健二、成瀬巳喜男、内田吐夢、川島雄三…など映画界の至宝たちが次々に傑作を量産していきます。
しかしそんな時代も終わりをつげます。1965年東京オリンピック、第二次世界大戦で敗戦した日本が、再び国際社会に復帰するシンボル的な意味を持ち、大きな節目となるものです。それは、社会を投影してきた映画にも言えることでした。そこでの大きな出来事として、黒澤の三船との決別と東宝との契約解除があると思います。つまり、『赤ひげ』という映画は、黒澤・三船コンビ最後の映画であると同時に、最後の戦後映画と言えるでしょう。
そうなることを黒澤監督は知っていたかのように、『赤ひげ』にかける思いは凄まじかったようです。「私は、この『赤ひげ』という作品の中にスタッフ全員の力をギリギリまで絞り出してもらう。そして映画の可能性をギリギリまで追ってみる。」という熱意で、当時のどの日本映画よりも長い2年の歳月をかけて映画化しています。作品の制作費の調達のために自宅を抵当に入れて、売却してしまうほど。また、本作には保本の両親役には笠智衆と田中絹代をキャスティングしています。これは、黒澤監督の先輩である小津安二郎監督作品の看板役者であった笠智衆と、溝口健二作品に多数出演した田中絹代を自分の映画に出演させる事により、2人の日本映画の巨匠監督への敬意を込めたと語っています。
やはり、その後の『若大将』シリーズの隆盛などを見ると、日本映画は少し変わっていきますよね。
僕は、黒澤作品の大きな魅力の一つとして貧しい人々への限りなく温かいまなざしがあると思います。そのまなざしは『赤ひげ』にもはっきりと表れています。映画黄金期に颯爽と別れを告げ、これから戦後復興から経済発展へと進む日本を予測して、「あの貧しい時代を忘れるなよ。」と警鐘を鳴らしているかのようにとれますね。
ひとつの時代の終焉と、日本映画の頂を観た気がします。
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カイロで黒澤映画フェスティバルが開かれました。連日の黒澤ワールド、エジプト人も楽しんでいたようです。
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