2011年4月29日金曜日

《ぼくらのゼロ年代。》 ファイトクラブ


1999・アメリカ
監督:デビット・フィンチャー
製作総指揮:アーノン・ミルチャン
製作:アート・リントン、ショーン・チャフィン、ロス・グレイソン・ベル
脚本:ジム・ウールス
出演:エドワード・ノートン、ブラッド・ピット、ヘレナ・ボナム・カーター・・・

主人公は自動車会社のリコール査定士。ここ数カ月は不眠症に悩み、さまざまな病気を抱える人々が集まる「支援の会」に通い始め、そこで泣くことに快感を覚えるようになる。ある時、やはり「支援の会」中毒の女、マーラに出会い、電話番号を交換する。出張先の飛行機で主人公はタイラーと知り合う。フライトから帰ってくるとなぜかアパートの部屋は爆破されており、主人公は仕方なくタイラーの家に泊めてもらうが、タイラーは自分を力いっぱい殴れという・・・。  

 とんでもない破壊力に満ちた映画。ゼロ年代を目前にした1999年、デビット・フィンチャーは方向を見失い暴走して行く若者の姿を通して、究極のカタルシスを描いた。「お前たちが見たいのはこれだろっ!」と言わんばかりに。この映画を観たときの快感は、『時計じかけのオレンジ』を観たときの一瞬だけ感じるちょっと怖い爽快感に似ている。
 

 主人公は不眠症に悩み、物質主義に首まで浸かっている顔色の悪い男。言い知れぬ欲求不満と衝動を抱えており、飛行機に乗ると事故で機体と人が吹っ飛んでゆく夢想に駆られる。不安からではない。凄惨な事件を想像することにえも言われぬ刺激を覚え、自分よりも不幸な人間を眺めると安堵するのだ。そんな彼は、ある日、タイラーと名乗る男に出会う。タイラーは、「消費者として生きることから脱却すべきだ。我々は消費社会に去勢され、肉体を失ったも同然」と説く。心を鷲づかみにされた主人公はタイラーとともに「ファイトクラブ」を結成し、メンバーを増やし、男たちは血まみれになるまで殴り合うことで、「生」の実感を得て行く。しかし、タイラーの暴力思想に扇動され、「ファイトクラブ」は反社会的行動へと拡大していく。

 90年代は心の内面の狂気が叫ばれる時代でした。物質主義に満たされ、幸福や絶望に鈍感になり、虚無の迷路に迷い込んだ若者たちの共感しがたい他者よりも自己の内面
へと向かいます。この映画に宿る暴力と狂気が観る人々に受け入れられたことは、人々の意識の底に眠った狂気にとって実に刺激的であり、思わず共感してしまったと解釈できます。

 というのもエドワード・ノートン扮する主人公には、劇中の役名がありません。字幕には、「Narrater Edward Norton」と出ます。主人公の名前は、「ナレーター」なのだろうか。いや、ナレーターとは、「ドラマのナレーター」のように使われるように、語り手、ナレーションを入れる人という意味です。すなわち、『ファイト・クラブ』は、エドワード・ノートンのナレーションによって一人称的に語られる形式になっていたということが、この字幕から再確認できます。 そして結局のところ、主人公の名前は、映画の最初から最後まで一度も登場しないのです。
 この主人公は名前を持たないということが、映画の謎解き、そしてテーマ上の実に重要なキーポイントとなっています。
 『ファイト・クラブ』は、エドワード・ノートンのナレーションによって語られる、いわゆる主人公の一人称的映画、主人公の視点から見た世界が描かれます。 そして、この主人公の名前が出てこないというのは、ラストの謎解きにおいて非常に重要な伏線となって来ます。ネタバレになるのでここまでに・・・。

 さらに、主人公が名前を持たないのには、もう一つ大きな役割があります。本作は「僕」の物語として一人称的に語られます。では「僕」とはいったい誰なのか。
 それは、我々観客自身、一人一人です。主人公の名前、それは我々一人一人の名前を当てはめることが可能。 『ファイト・クラブ』は殴り合いをする秘密クラブを描いた単なるお話ではなく、現実の自分と理想の自分との間でせめぎあい、葛藤する我々自身の心の物語として描いていると言えます。
 フラスト・レーションを抱え、生きがいを感じない我々観客一人一人が、このエドワード・ノートン演じる「僕」に成りきり、感情移入することで、主人公「僕」に憑依することができる。

 うーむ、やはりこんな映画の主人公に共感し、言葉にならない爽快感を味わう現代人は色んな意味で狂っているのかもしれませんね・・・。

 ブラット・ピットは次のように語っています。
「啓発とか悟りの探求を描いている。自分自身を捕えて、鎖につなぎと止めているもの、社会の罠からの逃避、そして何事に対しても恐れを持たないこと。『ファイト・クラブ』は我々の文化への愚弄と虫ずが走るほど嫌いなのにむりやりおしつけられたものへの応答なんだ。」

 

2011年4月28日木曜日

特集 ぼくらのゼロ年代。

 
ゼロ年代~2000年から2010年~。ぼくらが生きた「0」という時代はなんだったのだろう。ぼくらの世代にとっては、おそらくこのゼロ年代が青春時代となるのだろう。つまり、この年代の映画、音楽、漫画、アニメーションがぼくらの価値観、社会観を形成したことは言うまでもない。なぜなら、それらは常に現代を映し出す鏡のようなものだから。

 ゼロ年代前の90年代はその後半から「戦後史上もっとも社会的自己実現への信頼が低下した時代として位置づけられる」と語られます。(『ゼロ年代の想像力』宇野常寛著)すなわち1995年あたりを境に、「がんばれば豊かになれる」世の中から「がんばっても、豊かになれない」世の中へ移行して行きました。同時に、生きる「意味」や「価値」も見出すことが難しくなった。そんな中、世界はゼロの時代に突入しました。

 そして世界に戦慄が走ります。世界貿易センタービルに航空機が突っ込んだあの瞬間の映像は世界の映画に影響を及ぼさないはずがない。

同時多発テロ、ウソの戦争、大不況。誰もが信じた「強いアメリカ」、「マジメな日本」という虚像は、ゼロ年代に感受性豊かな時をむかえた僕らの目の前で、音を立てて崩れ落ちた。二本の高層ビルの如く。

 ぼくたちが生きたあの時代は何だったのか。最近の雑誌等ではよく見かける特集かもしれないが、このブログもそれに乗っかってみようかと思う。

 そんな混迷でどこかニヒリズムな意志を感じさせてくれる生きた映画、ゼロ年代前夜1999年から2010年までを取り上げていくとこにしよう。ぼくらの青春、ゼロ年代の映画が映し出し、僕らの「生」に影響を与えたものを徹底的に考えたいと思う。

というわけで行きましょう。

ぼくらの
ゼロ年代。


2011年4月22日金曜日

冒険者たち


1967・フランス
監督:ロベール・アンリコ
製作:ジェラール・ベイトー、ルネ・ピニェア
脚本:ロベール・アンリコ、ジョゼ・ジョバンニ、ピエール・ペルグリ
出演:アラン・ドロン、リノ・ヴァンチェラ、ジョアンナ・シムカス、セルジュ・レジエニ

 いや~、更新遅れました。年度初めのためバタバタとしていまして。まぁ、言い訳はこのくらいにして・・・。

 今回はロベール・アンリコ監督、『冒険者たち』。いつまでも抱きしめていたくなるような黄昏のロマンティシズムに彩られた永遠の大傑作。その全て、美しく、そして愛おしいんです。
 ロベール・アンリコ監督は、男たちの友情、ロマン、愛を一貫して描いた監督です。中でも最高傑作と名高かく、少年の心をそのまま映像化したような作品です。

 元レーサーのローラン、アクロバット飛行をしているマヌー、芸術家の卵レティシアの3人は奇妙な友情で結ばれていた。夢を追う彼らは、海底に眠る財宝を引き上げるため、アフリカのコンゴ沖にオンボロ船でやってきた。しかし、みごと財宝を引き上げたとき、ギャングが襲ってきて、流れ弾に当たったレティシアは死んでしまう。残った男二人は、財宝をもって彼女の故郷へ逃げるが・・・。



 映画史上で青春映画というジャンルで数々の作品がつくられてきました。僕も青春映画というものはとっても好きです。なんたって、映画は感情移入が命ですから。
 しかし、その時代時代の風俗や流行を描く青春モノは、その時だけのヒットで終わり、すぐに陳腐な時代の象徴的作品としか扱われなくなってしまうことがどうしても多いです。その当時を描くがゆえに、時代の壁を乗り越えることはめったにありません。

 しかし一方で、時代を超えて愛される青春映画があります。僕の好きなところで言うと、『卒業』、『ファイブ・イージー・ピーセス』、『今を生きる』、『スタンド・バイ・ミー』などなど。これらの作品は、例え、その時代の風俗(音楽、ファッション、文化、ダンスなど)を描いていていながら、その向こうに時代を越えた普遍的テーマである「愛」や「夢」、そして特に多くは《挫折》が見えてきます。

 『冒険者たち』に綴られる、「冒険心」、「夢」、そして「別れ」。これらもいつの時代、どの世代のひとが心のどこかには持っている、または持っていたものであり、未来永劫決して色あせることはないでしょう。この映画にも青春映画の魔法のエッセンスが見事にそろっています。

 主人公の三人は、全員が社会からは見放されたようなやつら。アラン・ドロン扮するマヌーとリノ・ヴァンチェラ扮するローラン。こいつらは「冒険者」なんてカッコイイわけではなくて、危険なことをして一攫千金を狙う、香具師です。年齢も青年とオヤジ。性格も違う。アラン・ドロンは世紀の美男子、リノ・ヴァンチェラは中年の太ったおっさんです。
 監督のロベール・アンリコ は、この二人の出会いも、過去の友情のエピソードも、ましては彼らの関係性に関して説明的シーンを一切もってきません。でも、余計な説明なんかいらねぇのよ。だって分かるんだもん。この二人にある熱い友情ってやつが。

 もう一人のキーパーソンがジョアンナ・シムカス扮するレティシア。彼女の美しさったらもう・・・。見てない奴は全員損してます。ハイ、ハッキリ言います。損してます。数々の映画を観てきたけど、ジョアンナ・シムカスほど海の似合う女優さんは居ないのではないか。

 これ程この映画が哀切極まりないのは、彼が描く誰もが持っている「冒険心」、「行動力」、「無謀さ」などの青春へのオマージュに共感するからでしょう。3人の主演者がみんな大人を感じさせながら、それでいて少年の心も残している。それが空々しく見えないところが素晴らしい。
 ラブシーンが全くないところも泣かせます。レティシアに対して2人の男ははっきりしたことは何も言わない。これはローランとマヌーの友情と同じ。けれども気持ちは良く分かる・・・。こうした演出は映画独自のものです。見る者の感性に訴えかけつかんで離さない。

 そして、ラスト。ああ、語りたいけどネタバレになるし・・・。ここはグッとこらえます。

2011年4月7日木曜日

秋刀魚の味


1962・日本
監督:小津安二郎
製作:山内静夫
脚本:野田高梧、小津安二郎
出演:岩下志麻、笠智衆、佐田啓二、岡田茉莉子、三上真一郎、東野英治郎、杉村春子、中村伸郎、北竜二、吉田輝雄、牧紀子、三宅邦子、加東大介、岸田今日子

 「あ~。日本人で良かったな。」  最近こう思ったときってありましたか。

 「こんなときにそんなこと思うわけねぇだろ!不謹慎なやつめ!」こう言われてしまうと元も子もないのですが・・・。

 地震、台風、火山、戦争。何度この国はめちゃくちゃになってきたことでしょう。そして今も。もしかしたら本当に日本は不幸な国なのかもしれない。ふとそう思ってしまいます。

 しかし、そのなかで日本人は自然災害や戦争と向き合い、時に上手にいなしながらそれらと共存してきました。それゆえ、この民族は本当に独特な感性や価値観を持っているといえるのではないでしょうか。
 そう考えると、この国を世界的な先進国にまで発展させ、同時に異常なまでの文化的洗練性を保持している日本人という民族は、世界的に類い希な能力があるのかもしれない。そして、僕はその独自の感性と勤勉さに触れると、この民族の一員であることが本当に誇らしいと感じる時があります。

 でも、こう思うことは日頃たまった泥を掻き出すようなことです。ふとその誇りを普段忘れてしまい、日々を堕落して暮らしてしまうことも多い。ここら辺は本当に自分が情けないと思います。
 そして今回ご紹介する作品も、日頃たまった泥を一気に掻き出してくれます。本人であるとこが本当に良かった、誇らしいと心から思わせてくれます。日本人の感性を昇華した映画です。



というわけで、小津安二郎監督、遺作『秋刀魚の味』。
壮年の会社員である周平は、既に妻を亡くし、の路子と次男の幸一との3人暮らしをしていた。ある日、周平はクラス会の打ち合わせで同級生の堀江に娘を嫁に出すよう勧められる。しかし、周平は、家庭を切り盛りしている路子の幸せを思うものの、嫁に出すにはまだ早いと感じていた。後日、周平は、クラス会の席で招いた恩師から娘を嫁に出さなかったことの後悔を聞く。このことがきっかけで,周平は娘の縁談を考えるようになる・・・。

  小津監督といえば、やはり東京物語が一番最初に語られることが多いかと思うのですが、僕が小津作品のなかで一番好きなのは、本作『秋刀魚の味』。
 やはりこの作品も初老の父親(笠智衆)が結婚適齢期の娘(岩下志麻)を結婚させようとする話が中心に、長男夫婦の話、父の中学時代の同窓会や先生(東野英治郎)の話など、この父親の半径5メートルの風景を映しています。

 鎌倉を舞台にした古き良き日本の佇まいへの憧れに満ちていた『晩春』からは、既に13年も経っています。そして、『東京物語』からも早や9年、1962年(昭和37年)には既に高度成長の入口に立っていた日本。『Always 三丁目の夕日』から数年後、電化製品の普及等豊かになり始めた半面、味気ないアパート住まいの東京の日常の姿を描いています。ゴルフに背伸びするサラリーマンの姿なんかも描かれます。常に日本の《家族》を映し出してきた小津監督ですが、それぞれの作品に登場する家族像には微妙に変化が見られます。それもまたおもしろいところではある。

 なかでも僕が印象的だった場面はトリスバー「かおる」でのシーン。笠智衆扮する平山周平と、加藤大介扮する坂本芳太郎と、岸田今日子扮する「かおる」のマダムが戦争へ思いをふけらせ、軍艦マーチのレコードをかけて敬礼ごっこをする場面です。3人が敬礼をし合って、お互いに笑みを浮かべて見詰め合う。実に理解しがたい日本的な?情緒がバーの中に充満するのです。そしてなにより不用意にこのシーンは長いのです。  では、なぜ?

 平山は戦時中駆逐艦「あさかぜ」の艦長で、坂本はその艦の水兵でした。彼らは戦争賛美者であるのか?右翼的な愛国主義者であるのか?いや戦争の辛苦を忘れそのノスタルジーに酔いしれているだけなのか?このトリスバーでの敬礼ごっこはおそらく欧米人には元より、戦争を知らない僕らにさえ理解できない光景でしょう。そして、このシーンの会話劇は、私たち日本人にとっても戦後を読み解く上で実に不可思議だが読み解くべき重要な《映像の記号》といわなければならない。

 もとより彼ら平山、坂本は決して戦争を賛美する軍国主義者ではなありません。

 そこで、この敬礼ごっこへとつながる平山、坂本の会話劇。面白いのはここでの平山艦長の坂本の問いに対する返事。いいんだか、悪いんだか、のらりくらりとして、どこまでも曖昧である。(まぁ、それが実に小津的というか笠智衆的というか。)しかし艦長は坂本との話しが不愉快なのではないのであり、むしろ面白がっていると感じられるのです。
 そのなかで最も注目すべきは、平山艦長のせりふで、「けど、負けて良かったんじゃないか?」でしょう。そしてそれに対して坂本も同意するのです。彼らは決して言い争うことがない。
 
 「けど、負けて良かったんじゃないか?」このせりふに小津監督の戦争観が垣間見えます。同様のセリフが1956年の『早春』の台本からも見ることができます。

 「けど、負けて良かったんじゃないか?」 小津安二郎という作家は、反戦を唱えることを主眼としているのではありません。結果論として負けてよかったと言うのです。小津監督が、威張りちらす軍人に対してその品性が愚劣であると言うように、それは彼自身が中国に従軍した戦争経験に基づくと考えられます。

 つまり彼はとって大きいのは人間の生き方、あり方、つまり人間の気品の問題なのであり、そういう意味で日本人は負けて品性を取り戻したと考えるのでしょう。
 戦争に負けて日本はどん底まで成り下がり、今までの自らの愚劣さを痛いほど刻み込んだ。でも、それが結果として、日本人の品性を取り戻した。それが小津の戦争観であり、何十年かたって結果としてそうあってほしいという願いなのかもしれません。

 だから、彼の作品は日本人という民族特有の気品にあふれ、それを見ると僕らは感動する。「あぁ、日本人で良かったな。」と思う。

 さて、この震災を日本人はどうとらえるべきなのだろう。  そのヒントを小津監督はそっと示してくれているようです。





 ああ!言い忘れましたが、『秋刀魚の味』では、女優陣が本当に魅力的です。平山の娘を演じた、岩下志麻。とっても若いし、なによりビックリするぐらい美人です。あと、トリスバーのママを演じた岸田今日子が扉から入ってくるシーンはとにかくエロい。なにせ湯上りで肩を切って入ってくる岸田今日子様だから。



《小津安二郎の様式美》


秋子(岡田茉莉子)の
・薄いイエローのシャツと薄いイエローの牛乳キャップ
・白いエプロンと白い牛乳
・ダークグリーンのスカートとダークグリーンの湯のみ 




2011年3月30日水曜日

ハンナとその姉妹


1987・アメリカ
監督:ウディ・アレン
製作:ロバート・グリーンハット
脚本:ウディ・アレン
出演:ミア・ファロー、ダイアン・ウィースト、バーバラ・ハーシー、マイケル・ケイン、ウディ・アレン・・・

 『ハンナとその姉妹』。恋愛映画?お前が語るなよ!という反論もあるかと思いますが、どうかお許しをっ。 
 僕の勝手な思い過ごしかもしれませんが、最近の邦画、ドラマの恋愛モノってどうも感情移入できなくないですか。イケメンとめちゃくちゃきれいな子出てきて好きだの嫌いだのやられてもね。最初はきれいなもの観たな~ってな感じでいいかもしれないけど、そればっかやられてもね・・・。   

 っていうか、そもそもおれイケメンじゃねぇから感情移入なんてできねぇんだよっ。(泣)ああ!知ってるさ!そんなこと。
 


 そんなこともあって僕はウディ・アレン先生の作品が大好きなのです。なんたって、先生はハゲでチビでメガネですからね。(ちなみにハゲとチビは同じ漢字です。→禿) そりゃ感情移入できるし、僕のようなモテないやつはせめてもの勉強になる。
 そんなわけで、『ハンナとその姉妹』!!! 完全にウディアレニズムの虜になった作品です。

三姉妹の長女ハンナの夫エリオットは、家庭的な彼女に満足しているものの、ふとしたはずみで三女のリーと深い仲になり、しかも彼女に夢中になってしまう。そんなリーは、歳の離れた画商のソーホーと同棲中。一方次女のホリーは、陽気な性格ではあるが、何をやっても熱しやすく冷めやすく、恋愛も仕事も中途半端で、ハンナにいつも心配ばっかりかけている…。

 僕は、『ハンナとその姉妹』はウディ・アレンの集大成的な映画だと思うのです。それほど彼の哲学が詰まった作品。また、これまでの『アニー・ホール』に代表されるウディ中心の恋愛劇から群像的な方向が打ち出され、以後のスタイルの原型ともなった作品です。なんといっても、全編を皮肉屋ウディの残酷なまでのシニカルな人間描写が覆い尽くしています。でも、決していやなシニカルさではなく、それら各人の会話と心理描写がめちゃくちゃ笑えて、僕のようなモテないヤツでもあー何となく分かる!分かる!と思わせてしまう。つまり共感のある笑い。さらにそれだけでなく演者の表情や背景やニューヨークの叙情的風景で物語に奥行きを与えることも忘れていない。うーむ。さすが先生。


 話は、ウディ特有の惚れたの腫れたのという単純な恋愛劇なのだけど、それと並行して、彼自身の生来の問題意識でもある「SEXと死」というテーマが扱われています。ウディ演じるテレビのディレクターが「死」という観念に囚われ、仕事を辞め、宗教に嵌り、最後にそれを乗り越えていく様子とマイケル・ケイン達のプリミティブな恋愛ゲームとの対比の中で、何故ウディ・アレンが映画の中でそこまで恋愛に拘るのかがじんわりと分かってくるのです。

 ウディ・アレンは、恋愛をその出会いから成就までという従来のサイクルでは考えません。彼はその《終わり》と《終わり》からの始まりを描くことで恋愛の本質、「今、この瞬間の思いを大切にすること」を表現するのです。僕はここにこそウディアレニズムの本質があると思います。つまりウディ独特のシニカルさも、この《終わり》描くがゆえに表面化しているものと考えられます。

 「今、現在」は“過去の思い出”や“未来の不安”の断片を常に含む、思いがけず、また思い込むことで連続していく様々な瞬間の蓄積としてある。他人同士が分かりあい、そしてすれ違い、我慢し合い、深く知り合う。恋愛がそういうものの蓄積としてあるならば、それは常に波のように揺れ動くものであり、ある振幅で瞬間的に壊れる、つまり《終わる》可能性もある。あらゆる瞬間の可能性の中で人生という悲喜劇があり、恋愛というものがある。その人生という波を微分的に捉え、そこに本質を見出し、それを味わうこと。そういう意志を自然のものとして感じ、感じるべきではないか。ウディ先生はそんなことを教えてくれます。
 


 邦画やドラマって恋愛の始まりのキュンキュンするところは描いても、《終わり》の部分は描きませんよね。必ずどっちかが病気かなんかにかかって死んじゃう。でも、それって変じゃないですか。僕のようなやつが思うのだからみなさんも思うはず。終わり?映画なんかでそんなの見たくないよっていうことかもしれないけど、ウディ作品を観てていやな気持ちなることってないですよね。むしろそこに笑いや感動や教訓を見い出すことができる。

 普段の生活では学べないとを学べるのも映画の本質だと思います。だから僕は映画を観るし、それが無くなっては映画は映画でなくなってしまうと思うのです。

 「今、現在」を描き人生を表現するため、先生は今も映画を創り続けているのでしょう。

2011年3月21日月曜日

ディア・ハンター

1978・アメリカ
監督:マイケル・チミノ
製作:マイケル・チミノ、バリー・スパイキングス、マイケル・ディーリー、ジョン・リヴェラル
脚本:デリック・ウォッシュバーン
出演:ロバート・デ・ニーロ、クリストファー・ウォーケン、ジョン・カザール、ジョン・サヴェージ、メリル・ストリープ

 1968年のペンシルベニア州クレアトン。マイケル、ニック、スチーブン、スタン、アクセルの5人は町の製鋼所に勤める親友グループで、休日には山で鹿狩りを楽しむ平凡な若者たちだった。ある土曜日、ベトナムに徴兵されるマイケル、ニック、スチーブンの歓送会と、スチーブンとアンジェラの結婚式が町の教会で合同で行なわれた。祝福する人々の中には、アル中の父親を抱える身ながら、帰還後のニックと結婚の約束をしたグループのアイドル、リンダもいた。式の後、彼らはそろってアレゲニーの山へ鹿狩りに出た。1970年、北ベトナムでの戦況は酸鼻を極めていた・・・。

 ベトナム戦争に赴いて心に傷を負った3人の若者の生と死を描いたマイケル・チミノの最高傑作。アカデミー賞では、作品・監督・助演男優・音響・編集賞を受賞しています。度胸ある親分肌のマイケル演じるデ・ニーロと、華奢で陽気なニック演じるクリストファー・ウォーケンの名演は、当時のベトナム戦争のアメリカの狂気そのものを体現していると言っていいです。そしてその狂気は観客への殺気にすら感じられるほど・・・。

 そして、あまりに有名なロシアンルーレットのシーン。それは『ディア・ハンター』の狂気の表面化です。しかし、この映画=ロシアン・ルーレットがすげぇと言ってしまうのは、あまりにもったいないというか、間違っていると思います。あくまでロシアン・ルーレットのシークエンスは純朴な若者が戦争によってもたらされた狂気の臨界点の突破にすぎないからです。

 『ディア・ハンター』の前半部は結婚式と鹿狩りのシーンが延々と続きます。初め観たときには「これって戦争映画じゃなかったの?」とちょっと心配になるくらい長ったらしいものです。なぜ、それらどーでもいいと思われかねないシークエンスをマイケル・チミノはしつこく描いたのか。それは、その結婚式やら鹿狩りのなんてことない純朴な若者たちの暮らしにこそ、この映画の本当の価値が宿っているからです。

 主人公達にとってその光景こそが《日常》です。ロシア移民が多く住む鉄鋼しかない町。どこか寒々とした風景は、よくあるハリウッド映画にはない普通のアメリカ人の現実そのものです。そこに存在するのは東京やニューヨークのような刺激的な世界ではなく、ただ仲間がいて家族がいて、地域の絆があるだけのスモールタウン。そこにはまさに僕たちと同じ《日常》が存在しています。そしてそんな平和な日常こそが、アメリカ人にとっての《理想郷》であったからです。
 そんな中で普通なら人生の大イベントである結婚式が行われます。ロシア民謡が流れ、それでも移民国家アメリカらしい結婚式。それを丁寧に描く事で分かる。その日常こそがかれらの《理想》だと。チミノ監督は「これこそが決して国家の正義には組しない彼らのあるべき姿だ」と言わんばかりにを彼らを丁寧に画面に映し出していきます。
 しかし、出征前のマイケル、ニックたちの表情を見ると、戦争へ行くことへの疑問やためらいは全く感じられません。むしろそれを誇りに思っているように見える。それは、彼らがロシア移民だからしょう。移民(とくにロシア系)の彼らにとって、戦下のベトナム戦争でアメリカ兵として戦うことこそが、自らのアメリカ人としてのアイデンティティー確立の残された唯一の道だった。

 アメリカの「正義」こそが、世界の正義。人々はそれを疑うことはありませんでした。今も昔も。でも、唯一アメリカ人自身がその「正義」にノー、と叫んだのがベトナム戦争への反戦運動でした。本当にアメリカがしていることって「正義」なの?僕らもそれに組みしているけど、本当に正しいの?国家の語る正義の矛盾に人々も気づき始めたのです。でも、出征前のマイケルたちはその矛盾に気づくことはありません。彼らにあるのは、おれたちもアメリカ人として社会からも自分からも肯定されたいという本当に純粋な願望だけです。

 マイケル・チミノはその《日常》を丁寧に描く事で、のちに彼らが直面する国家の語る「正義」の矛盾をこれでもかと観客に突きつけるのです。

 その手段としてのロシアン・ルーレットがあります。アメリカの「正義」を信じたロシア移民の彼らがロシアン・ルーレットの餌食となり、人格や人間としての尊厳が破壊されてゆく様を淡々と描くのは、究極と言っていい皮肉。そして、故郷で夢見た「正義」の矛盾の到達点としてのラストのロシアン・ルーレット。戦争は彼らの《友情》や《日常》を修復不能なまでに粉々にしていき、それを観るものに途方のない虚脱感と無力感を突き刺します。

 その矛盾に気づいたときは、時すでに遅し・・・。複雑な思いを噛み締めながら歌うラストのゴッド・ブレス・アメリカは涙なしでは観られない。

 いかなる「正義」であっても誰かの家族や友情といった《日常》を犠牲にして何かを得ることは本当に正義と言えるのだろうか。今のアメリカはベトナム戦争の反省を忘れ、国家の語る「正義」を世界に押しつけているのではないか。今、アメリカにマイケルやニックやスティーブンのようにアメリカ人としてのアイデンティティを求めたがために、イラクやアフガンで精神的に肉体的に破壊させられた若者がどれほどいるのだろう。

 

恋はデジャ・ブ


1993・アメリカ
監督:ハロルド・ライミス
製作総指揮:C・O・エリクソン
製作:ハロルド・ライミス、トレーバー・アルバート
脚本:ハロルド・ライミス、ダニー・ルビン
出演:ビル・マーレイ、アンディ・マクダウェル・・・
 
 高慢な人気気象予報士フィル・コナーズ(ビル・マーレイ)は田舎町であるペンシルベニア州パンクスタウニーにローカル番組のロケで来た。毎年2月2日に、ウッドチャックが自分の影を見て冬眠するかどうかを決定しその結果によって豊作を占うという聖燭節の祭、田舎行事で彼には退屈で耐えられないし、当然身も入らない。嫌々ながら一日を終え、都会への帰途、天候の急変で田舎町に泊まることになった。翌朝、彼を待っていたのは昨日と同じ2月2日だった。また翌日も同じ2月2日。この永久的なループに留め置かれたフィルは脱出するため、試行錯誤を繰り返していくが・・・。


 こんにちは!! お久しぶりです。「シネマ秘密基地」も本日から映画評を再開したいと思います。「映画で心の灯火をともそう」というテーマのもと、観ると世界の見方が今よりちょっと良くなる映画を取り上げていこうかと思います。

 というわけで、『恋はデ・ジャブ』。本作は一世を風靡した『ゴースト・バスターズ』の脚本を手掛けたハロルド・ライミス監督によるもので、自己中心的で他人への思いやりのかけらもない天気予報官フィル・コナーズが取材に訪れた田舎町で、どういうわけか、同じ日2月2日を何度も何度も繰り返すはめに陥ってしまう物語。

 喜劇俳優ビル・マーレイのどこかオフビートな魅力がたっぷり詰まっていて、ただなんとなく観ているだけでも笑えて、楽しい気分にさせてくれる秀作コメディであることは間違いないでしょう。


 しかし、この作品は同じ日を繰り返すというループに閉じこめられたフィル(ビル・マーレイ)の姿を通して、観客に「人生とは何か」、「あなたはいかに生きているのか」という鋭い疑問符を、ニーチェの哲学思想も巻き込んで、投げかけます。おかしくも、ものすごく恐ろしい映画です。でも、問いかけには終わらずに、どうしたらいいのかの答えまで提示するのです。ここがスゴイ。

 では、どこが「恐ろしい」のか。フィルは,最初のうち,次に日には元に戻るのだから何をやってもいいのだということで、暴走、暴食、セックス、果ては泥棒と無軌道に過ごします。まぁ、ここら辺ならまだかわいいもので、人間なんでも許されれば悪いことをするに決まってますから・・・。でも、やがて彼は、取材に同行しているプロデューサーのリタが好きだということに気付きます。繰り返しを利用して相手の好みを学習し,部屋まで誘うことに成功しますが、あわやというところで失敗。その後は何度繰り返しても、もっと手前で失敗してしまう。最終的にはリタから、「あなたは自分しか愛してないのよ。そんな人は絶対に好きになれない。」なんてことを言われてしまう始末。もはや、絶望して思いつくあらゆる方法で何度も自殺を試みるます。でももちろん同じ一日の中によみがえってしまう・・・。もうここまでくると発狂することも許されない究極の拷問です。そんなものを見せられたら観客としてはものすご~く気分が悪くなります。
 死ぬことさえ許されない状況、これからどうする・・・。   ここにこそ本作の最大の魅力があり、「あなたはいかに生きるのか」という問の答えの部分になり、同時に以下に述べるニーチェの永劫回帰思想への回答に当たる部分となります。

 この映画の背後にあるのは、ニーチェの思想と言われています。(これは監督自身が語っています)。この「もし、同じ繰る日も繰る日も全く同じ日だったとしたら、人はどうするのだろう。」という問いは、ニーチェが『ツァラトゥストラはかく語りき』で描いた《永劫回帰》という哲学思想らしいのです。この《永劫回帰》、実はニーチェ先生自身も完全には理解できなかったという難解な思想だそうです。そこで、映画評論家の町山智浩氏は「この作品はニーチェの永劫回帰思想をたったの100分で表現しきっていると言っても良いのではないだろうか。」と賛辞を述べています。

 
 この考えを現実に当てはめるならば、


 僕たちは来る日も来る日も同じ場所で,同じことの繰り返しでしかない退屈な毎日を生きているし、生きて行かなければならない。でもそんな同じような毎日を、退屈だと嘆いて愚痴をこぼしたり、人の所為にして文句を垂れるのは簡単だけれど、だからと言って、大概の人は自ら進んで変えようと行動をしたりはしない。だから、ニーチェは、そんな一般大衆を畜群と罵り、その中から一つ抜き出て、自分というものを確立し貫き、同じ日々が続いたとしても、その瞬間、瞬間を全力で生き、それはそれでOK!それも人生!と言える人こそ超人と呼び、その超人になる必要があると説きました。  

 ゆえに、この『恋はデジャ・ブ』の中ではフィルが毎日毎日同じ2月2日という日を永遠と繰り返すという極論で描かれていますが、それによって《永劫回帰》を表現し、そんな「同じ日」を繰り返す中でも、自らを変える力は、自らが持っているし、自分の意志や行動一つで、「同じような日」にも花を咲かせることができるということを観る者に気付かせてくれます。
 勿論コメディとして笑える素敵な映画なんだけれど、人生をただ生きるのじゃなくて、よりよく生きる為の在り方を、教えてくれるような素晴らしい素晴らしい傑作と言えるのではないでしょうか。

 この映画を見終わったときの気持ちをずっと忘れないでいられたら、僕の人生もすごーく密度の濃いものになるだろうな。