2011年3月21日月曜日

ディア・ハンター

1978・アメリカ
監督:マイケル・チミノ
製作:マイケル・チミノ、バリー・スパイキングス、マイケル・ディーリー、ジョン・リヴェラル
脚本:デリック・ウォッシュバーン
出演:ロバート・デ・ニーロ、クリストファー・ウォーケン、ジョン・カザール、ジョン・サヴェージ、メリル・ストリープ

 1968年のペンシルベニア州クレアトン。マイケル、ニック、スチーブン、スタン、アクセルの5人は町の製鋼所に勤める親友グループで、休日には山で鹿狩りを楽しむ平凡な若者たちだった。ある土曜日、ベトナムに徴兵されるマイケル、ニック、スチーブンの歓送会と、スチーブンとアンジェラの結婚式が町の教会で合同で行なわれた。祝福する人々の中には、アル中の父親を抱える身ながら、帰還後のニックと結婚の約束をしたグループのアイドル、リンダもいた。式の後、彼らはそろってアレゲニーの山へ鹿狩りに出た。1970年、北ベトナムでの戦況は酸鼻を極めていた・・・。

 ベトナム戦争に赴いて心に傷を負った3人の若者の生と死を描いたマイケル・チミノの最高傑作。アカデミー賞では、作品・監督・助演男優・音響・編集賞を受賞しています。度胸ある親分肌のマイケル演じるデ・ニーロと、華奢で陽気なニック演じるクリストファー・ウォーケンの名演は、当時のベトナム戦争のアメリカの狂気そのものを体現していると言っていいです。そしてその狂気は観客への殺気にすら感じられるほど・・・。

 そして、あまりに有名なロシアンルーレットのシーン。それは『ディア・ハンター』の狂気の表面化です。しかし、この映画=ロシアン・ルーレットがすげぇと言ってしまうのは、あまりにもったいないというか、間違っていると思います。あくまでロシアン・ルーレットのシークエンスは純朴な若者が戦争によってもたらされた狂気の臨界点の突破にすぎないからです。

 『ディア・ハンター』の前半部は結婚式と鹿狩りのシーンが延々と続きます。初め観たときには「これって戦争映画じゃなかったの?」とちょっと心配になるくらい長ったらしいものです。なぜ、それらどーでもいいと思われかねないシークエンスをマイケル・チミノはしつこく描いたのか。それは、その結婚式やら鹿狩りのなんてことない純朴な若者たちの暮らしにこそ、この映画の本当の価値が宿っているからです。

 主人公達にとってその光景こそが《日常》です。ロシア移民が多く住む鉄鋼しかない町。どこか寒々とした風景は、よくあるハリウッド映画にはない普通のアメリカ人の現実そのものです。そこに存在するのは東京やニューヨークのような刺激的な世界ではなく、ただ仲間がいて家族がいて、地域の絆があるだけのスモールタウン。そこにはまさに僕たちと同じ《日常》が存在しています。そしてそんな平和な日常こそが、アメリカ人にとっての《理想郷》であったからです。
 そんな中で普通なら人生の大イベントである結婚式が行われます。ロシア民謡が流れ、それでも移民国家アメリカらしい結婚式。それを丁寧に描く事で分かる。その日常こそがかれらの《理想》だと。チミノ監督は「これこそが決して国家の正義には組しない彼らのあるべき姿だ」と言わんばかりにを彼らを丁寧に画面に映し出していきます。
 しかし、出征前のマイケル、ニックたちの表情を見ると、戦争へ行くことへの疑問やためらいは全く感じられません。むしろそれを誇りに思っているように見える。それは、彼らがロシア移民だからしょう。移民(とくにロシア系)の彼らにとって、戦下のベトナム戦争でアメリカ兵として戦うことこそが、自らのアメリカ人としてのアイデンティティー確立の残された唯一の道だった。

 アメリカの「正義」こそが、世界の正義。人々はそれを疑うことはありませんでした。今も昔も。でも、唯一アメリカ人自身がその「正義」にノー、と叫んだのがベトナム戦争への反戦運動でした。本当にアメリカがしていることって「正義」なの?僕らもそれに組みしているけど、本当に正しいの?国家の語る正義の矛盾に人々も気づき始めたのです。でも、出征前のマイケルたちはその矛盾に気づくことはありません。彼らにあるのは、おれたちもアメリカ人として社会からも自分からも肯定されたいという本当に純粋な願望だけです。

 マイケル・チミノはその《日常》を丁寧に描く事で、のちに彼らが直面する国家の語る「正義」の矛盾をこれでもかと観客に突きつけるのです。

 その手段としてのロシアン・ルーレットがあります。アメリカの「正義」を信じたロシア移民の彼らがロシアン・ルーレットの餌食となり、人格や人間としての尊厳が破壊されてゆく様を淡々と描くのは、究極と言っていい皮肉。そして、故郷で夢見た「正義」の矛盾の到達点としてのラストのロシアン・ルーレット。戦争は彼らの《友情》や《日常》を修復不能なまでに粉々にしていき、それを観るものに途方のない虚脱感と無力感を突き刺します。

 その矛盾に気づいたときは、時すでに遅し・・・。複雑な思いを噛み締めながら歌うラストのゴッド・ブレス・アメリカは涙なしでは観られない。

 いかなる「正義」であっても誰かの家族や友情といった《日常》を犠牲にして何かを得ることは本当に正義と言えるのだろうか。今のアメリカはベトナム戦争の反省を忘れ、国家の語る「正義」を世界に押しつけているのではないか。今、アメリカにマイケルやニックやスティーブンのようにアメリカ人としてのアイデンティティを求めたがために、イラクやアフガンで精神的に肉体的に破壊させられた若者がどれほどいるのだろう。

 

1 件のコメント:

  1. まるで自分の感想を代弁してくれたかのようです。ありがとう。

    返信削除