2011年3月30日水曜日

ハンナとその姉妹


1987・アメリカ
監督:ウディ・アレン
製作:ロバート・グリーンハット
脚本:ウディ・アレン
出演:ミア・ファロー、ダイアン・ウィースト、バーバラ・ハーシー、マイケル・ケイン、ウディ・アレン・・・

 『ハンナとその姉妹』。恋愛映画?お前が語るなよ!という反論もあるかと思いますが、どうかお許しをっ。 
 僕の勝手な思い過ごしかもしれませんが、最近の邦画、ドラマの恋愛モノってどうも感情移入できなくないですか。イケメンとめちゃくちゃきれいな子出てきて好きだの嫌いだのやられてもね。最初はきれいなもの観たな~ってな感じでいいかもしれないけど、そればっかやられてもね・・・。   

 っていうか、そもそもおれイケメンじゃねぇから感情移入なんてできねぇんだよっ。(泣)ああ!知ってるさ!そんなこと。
 


 そんなこともあって僕はウディ・アレン先生の作品が大好きなのです。なんたって、先生はハゲでチビでメガネですからね。(ちなみにハゲとチビは同じ漢字です。→禿) そりゃ感情移入できるし、僕のようなモテないやつはせめてもの勉強になる。
 そんなわけで、『ハンナとその姉妹』!!! 完全にウディアレニズムの虜になった作品です。

三姉妹の長女ハンナの夫エリオットは、家庭的な彼女に満足しているものの、ふとしたはずみで三女のリーと深い仲になり、しかも彼女に夢中になってしまう。そんなリーは、歳の離れた画商のソーホーと同棲中。一方次女のホリーは、陽気な性格ではあるが、何をやっても熱しやすく冷めやすく、恋愛も仕事も中途半端で、ハンナにいつも心配ばっかりかけている…。

 僕は、『ハンナとその姉妹』はウディ・アレンの集大成的な映画だと思うのです。それほど彼の哲学が詰まった作品。また、これまでの『アニー・ホール』に代表されるウディ中心の恋愛劇から群像的な方向が打ち出され、以後のスタイルの原型ともなった作品です。なんといっても、全編を皮肉屋ウディの残酷なまでのシニカルな人間描写が覆い尽くしています。でも、決していやなシニカルさではなく、それら各人の会話と心理描写がめちゃくちゃ笑えて、僕のようなモテないヤツでもあー何となく分かる!分かる!と思わせてしまう。つまり共感のある笑い。さらにそれだけでなく演者の表情や背景やニューヨークの叙情的風景で物語に奥行きを与えることも忘れていない。うーむ。さすが先生。


 話は、ウディ特有の惚れたの腫れたのという単純な恋愛劇なのだけど、それと並行して、彼自身の生来の問題意識でもある「SEXと死」というテーマが扱われています。ウディ演じるテレビのディレクターが「死」という観念に囚われ、仕事を辞め、宗教に嵌り、最後にそれを乗り越えていく様子とマイケル・ケイン達のプリミティブな恋愛ゲームとの対比の中で、何故ウディ・アレンが映画の中でそこまで恋愛に拘るのかがじんわりと分かってくるのです。

 ウディ・アレンは、恋愛をその出会いから成就までという従来のサイクルでは考えません。彼はその《終わり》と《終わり》からの始まりを描くことで恋愛の本質、「今、この瞬間の思いを大切にすること」を表現するのです。僕はここにこそウディアレニズムの本質があると思います。つまりウディ独特のシニカルさも、この《終わり》描くがゆえに表面化しているものと考えられます。

 「今、現在」は“過去の思い出”や“未来の不安”の断片を常に含む、思いがけず、また思い込むことで連続していく様々な瞬間の蓄積としてある。他人同士が分かりあい、そしてすれ違い、我慢し合い、深く知り合う。恋愛がそういうものの蓄積としてあるならば、それは常に波のように揺れ動くものであり、ある振幅で瞬間的に壊れる、つまり《終わる》可能性もある。あらゆる瞬間の可能性の中で人生という悲喜劇があり、恋愛というものがある。その人生という波を微分的に捉え、そこに本質を見出し、それを味わうこと。そういう意志を自然のものとして感じ、感じるべきではないか。ウディ先生はそんなことを教えてくれます。
 


 邦画やドラマって恋愛の始まりのキュンキュンするところは描いても、《終わり》の部分は描きませんよね。必ずどっちかが病気かなんかにかかって死んじゃう。でも、それって変じゃないですか。僕のようなやつが思うのだからみなさんも思うはず。終わり?映画なんかでそんなの見たくないよっていうことかもしれないけど、ウディ作品を観てていやな気持ちなることってないですよね。むしろそこに笑いや感動や教訓を見い出すことができる。

 普段の生活では学べないとを学べるのも映画の本質だと思います。だから僕は映画を観るし、それが無くなっては映画は映画でなくなってしまうと思うのです。

 「今、現在」を描き人生を表現するため、先生は今も映画を創り続けているのでしょう。

2011年3月21日月曜日

ディア・ハンター

1978・アメリカ
監督:マイケル・チミノ
製作:マイケル・チミノ、バリー・スパイキングス、マイケル・ディーリー、ジョン・リヴェラル
脚本:デリック・ウォッシュバーン
出演:ロバート・デ・ニーロ、クリストファー・ウォーケン、ジョン・カザール、ジョン・サヴェージ、メリル・ストリープ

 1968年のペンシルベニア州クレアトン。マイケル、ニック、スチーブン、スタン、アクセルの5人は町の製鋼所に勤める親友グループで、休日には山で鹿狩りを楽しむ平凡な若者たちだった。ある土曜日、ベトナムに徴兵されるマイケル、ニック、スチーブンの歓送会と、スチーブンとアンジェラの結婚式が町の教会で合同で行なわれた。祝福する人々の中には、アル中の父親を抱える身ながら、帰還後のニックと結婚の約束をしたグループのアイドル、リンダもいた。式の後、彼らはそろってアレゲニーの山へ鹿狩りに出た。1970年、北ベトナムでの戦況は酸鼻を極めていた・・・。

 ベトナム戦争に赴いて心に傷を負った3人の若者の生と死を描いたマイケル・チミノの最高傑作。アカデミー賞では、作品・監督・助演男優・音響・編集賞を受賞しています。度胸ある親分肌のマイケル演じるデ・ニーロと、華奢で陽気なニック演じるクリストファー・ウォーケンの名演は、当時のベトナム戦争のアメリカの狂気そのものを体現していると言っていいです。そしてその狂気は観客への殺気にすら感じられるほど・・・。

 そして、あまりに有名なロシアンルーレットのシーン。それは『ディア・ハンター』の狂気の表面化です。しかし、この映画=ロシアン・ルーレットがすげぇと言ってしまうのは、あまりにもったいないというか、間違っていると思います。あくまでロシアン・ルーレットのシークエンスは純朴な若者が戦争によってもたらされた狂気の臨界点の突破にすぎないからです。

 『ディア・ハンター』の前半部は結婚式と鹿狩りのシーンが延々と続きます。初め観たときには「これって戦争映画じゃなかったの?」とちょっと心配になるくらい長ったらしいものです。なぜ、それらどーでもいいと思われかねないシークエンスをマイケル・チミノはしつこく描いたのか。それは、その結婚式やら鹿狩りのなんてことない純朴な若者たちの暮らしにこそ、この映画の本当の価値が宿っているからです。

 主人公達にとってその光景こそが《日常》です。ロシア移民が多く住む鉄鋼しかない町。どこか寒々とした風景は、よくあるハリウッド映画にはない普通のアメリカ人の現実そのものです。そこに存在するのは東京やニューヨークのような刺激的な世界ではなく、ただ仲間がいて家族がいて、地域の絆があるだけのスモールタウン。そこにはまさに僕たちと同じ《日常》が存在しています。そしてそんな平和な日常こそが、アメリカ人にとっての《理想郷》であったからです。
 そんな中で普通なら人生の大イベントである結婚式が行われます。ロシア民謡が流れ、それでも移民国家アメリカらしい結婚式。それを丁寧に描く事で分かる。その日常こそがかれらの《理想》だと。チミノ監督は「これこそが決して国家の正義には組しない彼らのあるべき姿だ」と言わんばかりにを彼らを丁寧に画面に映し出していきます。
 しかし、出征前のマイケル、ニックたちの表情を見ると、戦争へ行くことへの疑問やためらいは全く感じられません。むしろそれを誇りに思っているように見える。それは、彼らがロシア移民だからしょう。移民(とくにロシア系)の彼らにとって、戦下のベトナム戦争でアメリカ兵として戦うことこそが、自らのアメリカ人としてのアイデンティティー確立の残された唯一の道だった。

 アメリカの「正義」こそが、世界の正義。人々はそれを疑うことはありませんでした。今も昔も。でも、唯一アメリカ人自身がその「正義」にノー、と叫んだのがベトナム戦争への反戦運動でした。本当にアメリカがしていることって「正義」なの?僕らもそれに組みしているけど、本当に正しいの?国家の語る正義の矛盾に人々も気づき始めたのです。でも、出征前のマイケルたちはその矛盾に気づくことはありません。彼らにあるのは、おれたちもアメリカ人として社会からも自分からも肯定されたいという本当に純粋な願望だけです。

 マイケル・チミノはその《日常》を丁寧に描く事で、のちに彼らが直面する国家の語る「正義」の矛盾をこれでもかと観客に突きつけるのです。

 その手段としてのロシアン・ルーレットがあります。アメリカの「正義」を信じたロシア移民の彼らがロシアン・ルーレットの餌食となり、人格や人間としての尊厳が破壊されてゆく様を淡々と描くのは、究極と言っていい皮肉。そして、故郷で夢見た「正義」の矛盾の到達点としてのラストのロシアン・ルーレット。戦争は彼らの《友情》や《日常》を修復不能なまでに粉々にしていき、それを観るものに途方のない虚脱感と無力感を突き刺します。

 その矛盾に気づいたときは、時すでに遅し・・・。複雑な思いを噛み締めながら歌うラストのゴッド・ブレス・アメリカは涙なしでは観られない。

 いかなる「正義」であっても誰かの家族や友情といった《日常》を犠牲にして何かを得ることは本当に正義と言えるのだろうか。今のアメリカはベトナム戦争の反省を忘れ、国家の語る「正義」を世界に押しつけているのではないか。今、アメリカにマイケルやニックやスティーブンのようにアメリカ人としてのアイデンティティを求めたがために、イラクやアフガンで精神的に肉体的に破壊させられた若者がどれほどいるのだろう。

 

恋はデジャ・ブ


1993・アメリカ
監督:ハロルド・ライミス
製作総指揮:C・O・エリクソン
製作:ハロルド・ライミス、トレーバー・アルバート
脚本:ハロルド・ライミス、ダニー・ルビン
出演:ビル・マーレイ、アンディ・マクダウェル・・・
 
 高慢な人気気象予報士フィル・コナーズ(ビル・マーレイ)は田舎町であるペンシルベニア州パンクスタウニーにローカル番組のロケで来た。毎年2月2日に、ウッドチャックが自分の影を見て冬眠するかどうかを決定しその結果によって豊作を占うという聖燭節の祭、田舎行事で彼には退屈で耐えられないし、当然身も入らない。嫌々ながら一日を終え、都会への帰途、天候の急変で田舎町に泊まることになった。翌朝、彼を待っていたのは昨日と同じ2月2日だった。また翌日も同じ2月2日。この永久的なループに留め置かれたフィルは脱出するため、試行錯誤を繰り返していくが・・・。


 こんにちは!! お久しぶりです。「シネマ秘密基地」も本日から映画評を再開したいと思います。「映画で心の灯火をともそう」というテーマのもと、観ると世界の見方が今よりちょっと良くなる映画を取り上げていこうかと思います。

 というわけで、『恋はデ・ジャブ』。本作は一世を風靡した『ゴースト・バスターズ』の脚本を手掛けたハロルド・ライミス監督によるもので、自己中心的で他人への思いやりのかけらもない天気予報官フィル・コナーズが取材に訪れた田舎町で、どういうわけか、同じ日2月2日を何度も何度も繰り返すはめに陥ってしまう物語。

 喜劇俳優ビル・マーレイのどこかオフビートな魅力がたっぷり詰まっていて、ただなんとなく観ているだけでも笑えて、楽しい気分にさせてくれる秀作コメディであることは間違いないでしょう。


 しかし、この作品は同じ日を繰り返すというループに閉じこめられたフィル(ビル・マーレイ)の姿を通して、観客に「人生とは何か」、「あなたはいかに生きているのか」という鋭い疑問符を、ニーチェの哲学思想も巻き込んで、投げかけます。おかしくも、ものすごく恐ろしい映画です。でも、問いかけには終わらずに、どうしたらいいのかの答えまで提示するのです。ここがスゴイ。

 では、どこが「恐ろしい」のか。フィルは,最初のうち,次に日には元に戻るのだから何をやってもいいのだということで、暴走、暴食、セックス、果ては泥棒と無軌道に過ごします。まぁ、ここら辺ならまだかわいいもので、人間なんでも許されれば悪いことをするに決まってますから・・・。でも、やがて彼は、取材に同行しているプロデューサーのリタが好きだということに気付きます。繰り返しを利用して相手の好みを学習し,部屋まで誘うことに成功しますが、あわやというところで失敗。その後は何度繰り返しても、もっと手前で失敗してしまう。最終的にはリタから、「あなたは自分しか愛してないのよ。そんな人は絶対に好きになれない。」なんてことを言われてしまう始末。もはや、絶望して思いつくあらゆる方法で何度も自殺を試みるます。でももちろん同じ一日の中によみがえってしまう・・・。もうここまでくると発狂することも許されない究極の拷問です。そんなものを見せられたら観客としてはものすご~く気分が悪くなります。
 死ぬことさえ許されない状況、これからどうする・・・。   ここにこそ本作の最大の魅力があり、「あなたはいかに生きるのか」という問の答えの部分になり、同時に以下に述べるニーチェの永劫回帰思想への回答に当たる部分となります。

 この映画の背後にあるのは、ニーチェの思想と言われています。(これは監督自身が語っています)。この「もし、同じ繰る日も繰る日も全く同じ日だったとしたら、人はどうするのだろう。」という問いは、ニーチェが『ツァラトゥストラはかく語りき』で描いた《永劫回帰》という哲学思想らしいのです。この《永劫回帰》、実はニーチェ先生自身も完全には理解できなかったという難解な思想だそうです。そこで、映画評論家の町山智浩氏は「この作品はニーチェの永劫回帰思想をたったの100分で表現しきっていると言っても良いのではないだろうか。」と賛辞を述べています。

 
 この考えを現実に当てはめるならば、


 僕たちは来る日も来る日も同じ場所で,同じことの繰り返しでしかない退屈な毎日を生きているし、生きて行かなければならない。でもそんな同じような毎日を、退屈だと嘆いて愚痴をこぼしたり、人の所為にして文句を垂れるのは簡単だけれど、だからと言って、大概の人は自ら進んで変えようと行動をしたりはしない。だから、ニーチェは、そんな一般大衆を畜群と罵り、その中から一つ抜き出て、自分というものを確立し貫き、同じ日々が続いたとしても、その瞬間、瞬間を全力で生き、それはそれでOK!それも人生!と言える人こそ超人と呼び、その超人になる必要があると説きました。  

 ゆえに、この『恋はデジャ・ブ』の中ではフィルが毎日毎日同じ2月2日という日を永遠と繰り返すという極論で描かれていますが、それによって《永劫回帰》を表現し、そんな「同じ日」を繰り返す中でも、自らを変える力は、自らが持っているし、自分の意志や行動一つで、「同じような日」にも花を咲かせることができるということを観る者に気付かせてくれます。
 勿論コメディとして笑える素敵な映画なんだけれど、人生をただ生きるのじゃなくて、よりよく生きる為の在り方を、教えてくれるような素晴らしい素晴らしい傑作と言えるのではないでしょうか。

 この映画を見終わったときの気持ちをずっと忘れないでいられたら、僕の人生もすごーく密度の濃いものになるだろうな。 

 

2011年3月18日金曜日

映画で心の灯火をともそう





 東日本大震災から1週間、被害は収まるどころかむしろ拡大していっている現状ですね。地震から、「シネマ秘密基地」でも更新を控えてきました。しかし本日より映画評ブログとしての本来の投稿を徐々に再開したいと思います。不謹慎かと思われる方も多いと思います。でも、こういう時こそ映画や音楽が僕たちに与えてくれるものが大きい思うのです。

 「映画で心の灯火をともそう」。キネ旬窓際族さんのツイッターに便乗して、僕のブログもこれをテーマにどしどし傑作映画をご紹介していきます。ひとりでも多くの方が映画の力で元気が出ればこの上ない幸せです。

 以下に東日本大震災関連のサイトをまとめさせていただきます。
 
 被災された皆様とご家族のご無事をお祈り申し上げます。

東日本大震災関連サイト
《安否確認》
・Google消息確認
http://japan.person-finder.appspot.com/?lang=ja


・Google東北地方太平洋沖地震地震情報
http://www.google.co.jp/intl/ja/crisisresponse/japanquake2011.html



《交通情報》
・自動車・通行実績情報マップ
http://www.google.com/intl/ja/crisisresponse/japanquake2011_traffic.html

・東日本大震災のライフライン・交通などの情報
http://mainichi.jp/select/jiken/graph/20110311lifeline/


《ニュース》
・NHKニュース・気象災害情報
http://www3.nhk.or.jp/weather/

・NHK オンライン
http://www.nhk.or.jp/


 

2011年3月13日日曜日

地震のさなか

 普段は僕のくだらない映画評を投稿している「シネマ秘密基地」ですが、この度、東北地方太平洋沖地震により被害を受けられた皆様に謹んでお見舞い申し上げます。こんな中、はたしてブログを更新していていいものかと思うのが正直な気持ちです。

 11日の1時、家でご飯を炊いてのんきにお昼をとっていました。そんなとき地震が起きました。ものすごい揺れ。ジャーは転落し、炊き立てのご飯が床に飛び散る。本も。正直、もしかして、死ぬかもと思いました。


 死者不明者~名と言われますが、それぞれに家族や恋人がいて・・・。考えると途方もなく悲しくなリます。

  こんな時、自分が何にもしないこと、出来ないことが、何か罪悪感があるというか腹立たしいというか。こうのんきにブログを更新してるのも、本当にそれでいいのという自分に対する疑問が正直ある。でも、募金しないひと、電気を消さないお店が悪いんじゃない。行動できた人が凄いんだ。それ以外に意味はない。善意の強要は悪意をまとう。みんな地震に対する気持ちは一緒だ。そう自分に言いきかせてます。
 
 僕らのおじいちゃん、おばあちゃんは戦争から見事に日本を復興させた。僕らにだってきっとできる。    日本人なめんなよ!!!



 このブログを読んでいただいている方またその家族がご無事であることを祈っています。
 日本の誇りと世界の祈りです。↓



2011年3月5日土曜日

トウキョウソナタ   (受け継がれる『東京物語』のDNA)

 
 
2008・日本、オランダ、香港
監督:黒沢清
製作総指揮:小谷靖、マイケル・J・ワーナー
脚本:マックス・マニックス、黒沢清、田中幸子
出演:香川照之、小泉今日子、小柳友、井之脇海、井川遥、役所広司・・・

 確か中学生の頃でした。SF少年だった僕は、テレビで見た『キャシャーン』の予告にくぎ付けになり、父親にせがんで隣町にできたばかりのシネコンに、それを観に行きました。本当にワクワクしながら。そして、それは僕にとって忘れられない体験となりました。それが初めてです。映画を観て死にたいと思ったのは。(笑)開始30分経たずに一刻も早くエンドロールが来ることを望む僕がそこにいました。その経験からすっかりトラウマに陥り、現代邦画の食わず嫌いになってしまって、洋画それもB級SF・アクションモノばかりを観まくるという偏った食生活になってしまいました。  そしてそんな現代邦画トラウマから救ってくれたのが『ジョゼ虎』であり、本作『トウキョウソナタ』などの良質な作品たちです。   まぁ、以上は余談ですから置いといて。


 『トウキョウソナタ』は東京に暮らす、ごく普通の家族がたどる崩壊から再生までの道のりを、家族のきずなをテーマに見つめ直した人間ドラマで、『回路』などのホラー映画で知られる黒沢清監督が、累積したうそや疑心暗鬼などにより、ありふれた家庭を壊していくさまを現代社会を映す鏡として描いています。

 仕事に没頭する毎日を送っている平凡なサラリーマンの佐々木竜平(香川照之)は、ある日突然、長年勤め上げた会社からリストラを宣告されてしまう。一方、世の中に対して懐疑的な心を持っている長男・貴(小柳友)は家族から距離を置くようになり、一家のまとめ役だったはずの妻・恵(小泉今日子)にも異変が起き始めていた。

 「家族」、「東京」、ときたら映画ファンならずとも、思い浮かぶ作品・・・。そう、巨匠小津安二郎監督の名作、というか国宝『東京物語』。黒沢監督の小津安二郎への敬愛が尋常ではないことは自明であり、現代版『東京物語』を意識している言えるでしょう。『トウキョウソナタ』も同様に「家族」と現代にひそむ影の部分をあぶりだします。


 『東京物語』の「家族」は、“はかなさ”と“あわれ”が付きまとう家族でした。1953年、日本が戦争の疲弊から立ち直り、高度経済成長へ向かっていた時代、地方に住む老夫婦が東京の息子娘夫婦を訪ねていく物語です。東京への一極集中化が始まり、どこへ行っても「家の狭さ」が強調され、核家族化が進みつつありました。そのなかで、美容院を営み利己的、打算的になっていく杉村春子扮する娘の性格と、戦死した次男の嫁に扮した原節子の、一人つましく生きながら他人を思いやる心やさしい性格が対照的に描かれ、そこに興隆期日本の家族というものの変化を描いていました。

 一方、そのうえでの『トウキョウソナタ』の「家族」。興隆期が終わり、疲弊感すら漂う現代社会での一見普通に見えるが、内実はもろく危うい4人家族。会社をリストラされ、それを家族には隠しハローワークの長い行列に並ぶ父親(香川照之)。女としてもう若くはないが、すべてをあきらめてしまうほど年老いてもいない。夫や子供から妙な距離を置き、不思議なの立ち位置の母親(小泉今日子)。自分の存在意義を見いだせず、家族の反対を押し切り勝手にアメリカ軍の入隊を決める長男。家族に自分の居場所が無く、父の反対を押し切り給食費を月謝に当て、秘密でピアノを習う次男。それぞれがそれぞれに秘密を持ち、家族は崩壊の序曲を奏でます。『トウキョウソナタ』で描かれるそれは、小津が警鐘を鳴らした核家族を飛び越え、もはや家族が個人の単位で分断されたいわば「個人家族」。
 しかしスゴイところは家族の完全なる崩壊の次の段階、「再生」が提示されること。それも、さすがは黒沢清だなと思わされたのは、単純に家族の再生を暗示して終わるのではなく、家族の変容を受け入れるという答えを提示して見せたことです。初めは単純に反発していただけの長男はやがて精神的にも自立していくし、次男がピアノの才能を開花させたことも将来の独立を予想させる。そして無闇に威張りくさっていただけの父親は、次男が弾くソナタに黙って耳を傾けます。  無理に古い家族の形式を守るのではなく、それぞれが精神的に独立した《個人》であることを認めて、かつ「家族」であり続けようと努力する。題名が『ソナタ(=独奏曲)』である理由はここでしょう。ソナタが合奏になるのではなく、ソナタがソナタとして完成されるという過程が、家族の中での個人が《個人》として完成することのメタファーとして成り立ちます。核家族のその先、という新たな時代と家族の変遷を描くことで、明確に『東京物語』“以降”であろうとする意欲が見て取れます。 
 
 またもう一つの見どころは、母親を演じる小泉今日子。自ら監督に、「顔の皺も隠さず全部そのまま撮ってしまってください」という注文をしたそうです。家族とのぼんやりとした不思議な距離感を見事に体現しています。


当たり前に呟かれるようで、映画人にとって別格の一語「東京」の名を冠するふさわしい傑作です。