2011年7月9日土曜日

《ぼくらのゼロ年代。》 ゆれる


2006・日本
監督:西川美和
脚本:西川美和
出演:オダギリ・ジョー、香川照之、伊武雅刀、新井浩文、真木よう子、蟹江敬三、木村祐一

久しぶりの邦画。個人的な趣味嗜好からやはり洋画に偏ってしまうのは否めない。でも、拳銃バンバンとか車ドッカーンみたいな映画ばかり取り上げても、頭が悪いことがばれてしまいそうなのでたまには邦画も。

 まず、ゼロ年代邦画の総論ですが、日本におけるこの10年間の映画界の大きな潮流として、アメリカ映画、いわゆるハリウッド映画を観る人が減り、邦画がよく健闘したと言われます。その一因として、9・11とイラク戦争以降、排他性が強まったことがあるのかもしれない。個人的実感としては、ゼロ年代の初頭からその傾向は強まってゆき、2008年の『ダークナイト』の作品のクオリティとその観客数に驚かされ、確信に至りましたね。そして、そこで問題にされるべきは「作品のレベル」と「集客」の過剰なアンバランスがあるのではないかということです。

そういった潮流に乗ってゼロ年代には邦画バブルの結果、膨大なゴミ邦画が量産されることとなります。しかし、その中、掃き溜めに埋もれず燦然と輝く才能と傑作はありました。

園子温の『愛のむきだし』、深作欣二の『バトルロワイヤル』、犬童一心の『ジョゼと虎と魚たち』、岩井俊二の『リリィ・シュシュのすべて』、周防正行の『それでもボクはやっていない』、山下敦弘の『リンダリンダリンダ』、三池崇史の『殺し屋1』、是枝裕和の『誰も知らない』・・・etc
などなど、それぞれに思い出深いベスト邦画があるかと思います。

そこで、おこがましいですが、ぼくが邦画ゼロ年代ベストを選ぶとしたら迷わず本作をあげます。


 西川美和監督作『ゆれる』。

 恋人や友人、その関係が切れるとこはある。しかし、兄弟は、近くて遠い似ているようで異なる、最も身近な他者としてある関係。それは互いに相手を切断できない宿命にあり、無情にも「ゆれる」しかない。


カメラマンとしても成功し、東京で派手に暮らす弟(オダギリジョー)。家業のちっぽけなガソリンスタンドを継ぎ、女に縁がなく、老いた父と二人で暮らすさえない兄(香川照之)。この二人が久しぶりの法事に、故郷で再会するところから物語は始まる。 弟は、兄が面倒な実家のもろもろを背負い込んでくれたから、東京で好きなことをやっていられるのだと薄々気づいていながら、何でも許してくれる優しく面倒見のよい兄に、無意識に甘えている状態。この日もあろう事か、兄が思いを寄せている二人の幼馴染の女(真木よう子)を送った後、そのまま部屋で抱いてしまう。そしてその翌日、事件はおきる。3人でドライブに出かけた渓谷のつり橋で、幼馴染の女だけが墜落死してしまうのだ。 さて、これは事故か、殺人事件か。唯一の目撃者となった弟の記憶もゆれる・・・。


真実の虚偽性、心理が生み出す主観性、嘘と真実、愛と裏切り・・・。それらすべてを真実と嘘に翻弄された兄弟の姿を通して体感させてしまいます。ぽっと投げ出されるひとこと、ふたことが、ゆれを生み出す。相手に対するゆれ、自身へのゆれが、観ているこちら側にも侵食し、題名通り、胸を掴んで揺さぶる。

まず、序盤の巧みさ。何やら怠惰に忙しそうなオダギリ・ジョー扮する猛が映る。まず、定点カメラの引きのワンショットでとらえる。「二年ぶりの休み」という微かな台詞と自由で縛りのない多忙ぶり。どうやら彼がカメラマンで久しぶりの里帰りすることが分かります。そして女に強烈なキスを味わらせ、さっそうとビンテージものの外車に乗り込む。ガソリンスタンドで会う女。女に猛獣のように噛みつくはずの彼は隠れるようにして目をそらす。
そこで疑問が浮かぶ。この男と女はどのような関係なのか。その知られざる関係は、一切台詞のない彼の動作と彼女の一歩間に合わないガラス越しの指先で表現されている。


 余計な説明を省く、と言うよりも、むしろ策略的な説明排除によって、映画的なミステリーを創り出し、観る者の視線と思考と感情をスクリーンに釘付けにしてしまう。まさに役者の動きによって、映画の空気を動く感覚。そのダイナミズムが確かにこの映画には存在します。 


ところで、邦画の邦画たる所以は、ぼくここにこそあるのだと思います。
アメリカ映画のようなド派手なアクションはなくとも、演者の微細な心情の動きをとらえ、その一変した映画の空気そのもので観客を圧倒するダイナミズム。ハリウッド製アクションとは、一線も二線も画す本当の意味でパワーをもった映像の力。


 それを可能にするのは、西川監督が役者を大変に信じ、役者の演技が映画作品において視覚表現以上の大変重厚な空気を生み出すことを知っていること。
 やっぱり、オダギリ・ジョーと香川照之はもう凄いっす・・・。香川照之扮する兄は、表情としてニコニコし、優しい人柄に思えるが、その瞳の奥に潜む本心が強烈に観る者の心を突き刺します。さらに、時にそのポーカーフェイスは強烈な皮肉を生み出します。面会場で「お前はさ、真実を事実として見てないんだよ」と呟く彼の顔面と言葉は裏腹で非常にシニシズムに溢れている。そしてラスト。全てを思い出し、懺悔がうごめく中、弟と兄は・・・。
また、題名「ゆれる」の通り、吊り橋が一つのモチーフとなって、弟と兄の「ゆれる」心情を象徴しているのも、非常に綺麗にまとまっていて、心憎い!って感じですね。


まさに、主人公たちの感覚の間を彷徨う映画。映画的な表現、それを動かす役者の演技、それら全てを惹きだす策略的な脚本。小津以来連綿と受け継がれてきた日本映画の芸術性、エンタメ性が見事に昇華されたいわば、日本映画の集大成的作品といえるのではないでしょうか。

2011年6月27日月曜日

《ぼくらのゼロ年代。》 25時


 2002・アメリカ
監督:スパイク・リー
製作:スパイク・リー、トビー・マグワイア、ジュリアン・チャスマン、ジョン・キリク
脚本:デイヴィット・ベニオフ
出演:エドワード・ノートン、フィリップ・シーモア・ホフマン、バリー・ペッパー、ロザリオ・ドーソン、アンナ・パキン、ブライアン・コックス・・・

個人的にゼロ年代最高傑作の一本に挙げてもいいのではないかと思っている。スパイク・リー監督、エドワード・ノートン主演『25時』。


スパイク・リー監督といえば、80年代から90年代にかけて過激な発言によって白人アメリカへの抵抗と黒人アメリカの行き詰りを描いた社会派監督として名高い。映画監督であると同時に、現代のブラック・カルチャーの象徴的存在と言えます。
ザ・ブラック・カルチャーの存在として捉えられることの多いスパイク・リー監督ですが、実はそれは第一の潮流です。彼は80年代から90年代前半にかけて、アフリカ系アメリカ人としてのアイデンティティと人種間の対立・差別をテーマにパワフルな作品を量産します。その頂点がデンゼル・ワシントンと組んだ『マルコムX』です。そして、第二の潮流として、90年代中盤からゼロ年代にかけて彼は普遍的な人間を見つめるドラマを発表していくようになります。
その到達点が本作『25時』なのです。




そして、この映画に流れている空気を思い起こせば、いまだによみがえってくる。あの焦りや息苦しさが。ある種の緊張感を強いられ、叫び出し、逃げ出したいような衝動にかられてしまう。舞台はニューヨーク。まるで自身を癒すかのように、自分によく似た瀕死の闘犬を救う主人公モンティ(エドワード・ノートン)。彼が刑務所に収監されるまでの24時間を切り取った物語です。

冒頭、主人公のモンティが路上に倒れている血まみれの犬を救います。続いてタイトル。ニューヨーク上空に象徴的な光が幾筋も映し出される。光の正体は9・11テロで崩壊したワールド・トレード・センター跡地に、複数のライトで光の束をつくり、今は亡き2本のビルを再現する「追悼の光」です。やがて、光の束は消え、24時間の人間ドラマの幕が開く。この一連のシークエンスで、この映画が9・11後のアメリカの姿、いや世界の姿を象徴するものであることを暗示します。

エドワード・ノートン扮するモンティは堅気の道を選ぶこともできました。しかし、麻薬の売人となり、警察に捕まり、有罪判決を受け、24時間後には刑務所に収監される。刑期は7年・・・。その代償はあまりに大きい。なぜこんなことになった?怒りと悲しみと不安に苛まれながら、それでも冷静さを失わないようにふるまうモンティ。彼は最後の一夜を親友のフランクとジェイコブとともに過ごすこととする。はたして、モンティがとる最後の選択とは・・・。


9・11で大きなものが失われた。それも決して失ってはならないものが。そして、失ったものは二度とは帰ってこない。そのニューヨークの姿は、道を踏み外し後悔と失意の底であえぐアイルランド系青年モンティの姿と重なる。グラウンド・ゼロ、そこからはやり場のない怒りではなく、厳粛な思いがにじみ出す。いや、これは何もニューヨーカーに限った話ではない。現代人の精神的メタファーでもあるのです。

それは、快楽に身を委ね、先送り可能な事態には徹底的に目をそむけてきた都市生活者のある気分。おそらく破滅に向かっていると意識はしながらも、それを誰かのせいにしながら自分と向き合うことをしない。それは断ち切ることのできない鈍く重い死への行進である。そして、不安、悔恨、絶望。心の奥底に押し込めてきた感情が「状況」によって堰を切る。気づいたときには遅く、後悔の念が食い殺さんばかりに襲いかかる。でもそんな状況においても、希望を捨てることのできないのが悲しき性。きっとこれは、ぼくらの身近にもあること。


それは、ぼくの場合、心の奥そこにある、うすうす自覚はしているけど、向き合うことを避けてきたことで、それが画面で展開されるたび、叫びだし、逃げだいたくなる衝動に駆られた。その感覚は映画を観て初めて分かっていただけるかと。

でも、それだけではただの無理やりに現実を突きつけるだけのストレスフルな映画。

そこで出てくるのが《25時》の本当の意味とは何か?ということ。
そこにこそ、この映画の主題があり、モンティの選択がある。そして、行き場のない後悔と無力感に押しつぶされた現代人に残された最後の道の提示がある。ラストに展開する、その美しくも痛切なモンタージュ・シーンは涙なしには観られない。



はっきり言う。これほどのカタルシスをぼくは映画史上体験したことがない。

2011年6月14日火曜日

《ぼくらのゼロ年代。》 レクイエム・フォー・ドリーム


2000・アメリカ
監督:ダーレン・アロノフスキー
製作総指揮:ボー・フリン、ステファン・シムコウィッツ、ニック・ウェクスラー
製作:エリック・ワトソン、パーマー・ウェスト
脚本:ヒューバート・セルビー・ジュニア、ダーレン・アロノフスキー
出演:ジャレット・レト、ジェニファー・コネリー、エレン・バースティン、マーロン・ウィリアムズ、クリストファー・マクドナルド・・・

 『ブラック・スワン』、傑作でしたね。ぼくらのナタリーが、あ~なことや、こ~んなことをしたり、されたりしてましたからね。それと、僕の周りでは、「いや~怖かった」「いや~痛かった」という声が多いです。
 それもそのはず、監督はダーレン・アロノフスキー。
 『ブラック・スワン』=ナタリーが凄い(色んな意味で)と一刀両断に語られることが多いかと思います。しかし、今回はその悪趣味監督ダーレン・アロノフスキーに注目してみたい。
 というわけでダーレン・アロノフスキー監督、ゼロ年代の怪作『レクイエム・フォー・ドリーム』を取り上げる。

 まず、アロノフスキー監督は人間や都市に潜む闇の存在をえぐりだし、観るものの神経を逆撫でするアバンギャルド演出が作風の作家です。これはデビュー作『π』や、『ブラック・スワン』にも顕著です。『ブラック・スワン』でも、背中から首筋にかけてがゾクゾクする感覚に襲われた方も多いはず。これこそが、まさにアロノフスキー演出の真骨頂。
 その悪趣味演出が、人物描写において異常なまでに炸裂したのが本作。

  
 『レクイエム・フォー・ドリーム』は現代都市生活者に見られる中毒症状一般についての考察であり、自滅してゆく人々の生態観察でもあります。掃き溜めのようなコニーアイランドで、いつかどこかにある幸福を夢見ながらドラッグにおぼれてゆく若者たちと、大好きなテレビ番組に出演しようとダイエット薬中毒になり、現実と虚構の区別のつかなくなって行く主人公の母親の姿を描いゆきます。

 『レスラー』などでも精神と肉体の感覚世界にアプローチしているアロノフスキーは、原作の地獄絵図とその作風と摺合せ、非常に痛みを込めて描写することに成功しています。精神ゆがみは肉体に反映し、肉体のゆがみは精神に影響を及ぼしてゆく。この精神と肉体の関係は切り離すことは決してできない。だからこそ、人は心や身体に痛みを感じたとき、薬や酒やテレビなどに夢中になることで精神と肉体を麻痺させることを欲し、一時的な恍惚におぼれる。

 しかし、この恍惚こそが、「地獄の底に通ずる穴の入り口」で、そう悟ったときはもう遅い。後ろに戻ることはできず、覚めることのない恍惚感を求めて、現実からの逃避の欲望は加速します。


 「夢」や「あいまい」を心どこかに持ち続けているのが本作の登場人物たちです。しかし、現実ではそんな主人公たちが生きにくい。本作には「夢」や「あいまい」を拒絶する絶対的な現実世界への厳しき認識があります。

 でも一方では、人間は夢をもつことなしに生きることのできない生き物です。『レクイエム・フォー・ドリーム』は、そうした矛盾した現実から逃避した彼らを、悲しき哀れな生き物として描きます。それには、「残酷な現実」と悦楽に浸ることでそこから必死に逃げる主人公たちへの「優しさ」を感じるのです。タイトルの意味するところはそこです。「夢のための鎮魂歌」。

 「シネマ秘密基地」では、僕が観て、責任をもっておすすめできる作品しか取り上げていないつもりです。しかし、『レクイエム・フォー・ドリーム』は100%の肯定でもっておすすめすることはできません。しかし、それぐらい凄まじい破壊力を持った作品といえます。アロノフスキーの地獄巡りに同行する勇気のある方は是非ご鑑賞ください。

2011年6月11日土曜日

《ぼくらのゼロ年代。》 エレファント

2003・アメリカ
監督:ガス・ヴァン・サント
製作総指揮:ダイアン・キートン、ビル・ロビンソン
製作:ダニー・ウルフ
脚本:ガス・ヴァン・サント
出演:ジョン・ロビンソン、アレックス・フロスト、エリック・デューレン、イライアス・マッコネル、ジョーダン・テイラー、ティモシー・ボトムズ・・・

ガス・ヴァン・サント監督の『エレファント』は、1999年4月20日にコロンバイン高校で起きた銃乱射事件を描いた、カンヌ映画祭のパルムドールと監督賞を受賞した異色作です。

 ガス・ヴァン・サントという監督の特徴を一言で表すなら、「空気」を撮る監督、言えるのではないか。
 本作ではいわゆる「物語」は破棄されており、通常の映画なら飾れるであろう装飾物の一切を削ぎ落としています。その代り、映画は、端正な色彩と構図、最小限の音響、意味のない会話、登場人物をまとう独特の空虚感・・・など厳選された要素の積み重ねによって構成され、その中からガス・ヴァン・サントが紡ぎだすのは「空気」そのもの。つまり、あまりに透明であるがゆえに、かえって不穏さを感じさせる「空気感」なのです。

 中心となる数人の登場人物は、平凡な日常を生きている匿名的な高校生たちです。彼や彼女らの歩く姿を、カメラは背後から見守るかのようにロングショットで追い、校庭、廊下、教室、食堂、図書館、写真室などを移動しつづける。高校生活を送った人ならだれにでも、当時あった日常。それが実にリアル。その中を立ち込めるのは、誰もが経験したあの穏やかで透明すぎる空気。観るものはスッと映画の中に入む。
 しかし、一瞬カメラはふいにスローモーションに切り替わり、そしてその中に「不穏さ」をとらえる。それまで流れていた日常の時間を変質させ、その場に忍び寄る「不穏な空気」を明白にします。

 映画は一見、穏やかに進行しながら、徐々にその緊張感を高めてゆき、クライマックスへの悲劇へと不気味なくらい自然に流れ込む・・・。



 興味深いと感じたのは、映画の中で登場する高校生がまるで社会の縮図のように、一人一人異なる問題に対面していること。例えば、トイレに行くにもダイエットのために食べたランチを吐き出すのにもグループでいかなければ仲間はずれにされてしまう女子生徒の友情に対する価値観。アルコホリックな父親の存在に苛立ち、さらに校長に呼び出されて叱責され、さらに苛立ちをつのらせるジョン。写真という熱中できるものを持ち、ひたすらシャッターを押すことに没頭するイーライ、容姿もスタイルも冴えず、何をするにも愚鈍で他の生徒からは嘲笑の的になっているミシェル。アメフトの花形プレーヤーで、恋人とはラブラブ、そして学校の女子生徒からの憧れの的であるエリック。そしてバイオレントなテレビゲームに夢中になり、学校や他の生徒を恨んで仕返しを企むアレックス。登場するこれらの主要な高校生たちは、知り合いであったり、廊下ですれ違うだけで顔を何回か見たことのあるくらいの関係であったり、様々で、人物はそれぞれ均一に淡々と描写されます。
 しかし一律に言えるのは、それぞれがそれぞれに内なる闇を抱えている若者たち。人物をそれぞれ均一に淡々と描写することでそこはかとなくそれを伝えます。
 これらの描写も僕は実にリアルに感じた。というのは、数年前まで自分の日常にあったものがそのまま描かれている感じがしたからだ。

 つまり、誰がヒーローでアンチヒーローなのかという構図は完全に崩壊させています。カメラは事件を起こす2人も、射殺される高校生も、全て均等に映し出し、「誰が悪いか」を決めようとはしません。むしろ銃を乱射した2人こそ、社会の生み出したものや価値観の犠牲になった哀れな、報われるべき子供たちであることを痛感させられます。放任主義で、親子間の会話はあまりない彼らは、親の与えたカードで何でも手に入ってしまう。彼らががライフルをインターネットで買っていることを両親はよもや知るよしもない。



 ガス作品の共通のテーマは前述した「空気」と、「若者」です。彼は、ある時代のある場所のある時間に流れていた空気を若者に託して再現しようと試みたのです。それは、『マイ・プラーベート・アイダホ』、『ジェリー』、『ラスト・デイズ』、『パラノイドパーク』・・・などにも顕著です。しかし、もっともその空気感が強力なのは『エレファント』かと。

 世紀末の白茶けた日常を、何の希望も展望もないまま、あてどなくさまようしかなかった若者たちの背中の表情に、穏やかな抑圧と、秘められた狂気を見出し、そこに浮かび上がるであろう疑問を、疑問のままに観客と共有することで、不条理な運命にもてあそばれた世紀末からゼロ年代を浮彫りするのでしょう。




PS
 ガス・ヴァン・サント監督の最新作『レストレス/Restless』には、われらが加瀬亮くんが出演しています。日本では12月に『永遠の僕たち』というしょうもない邦題で公開されるそうです。ともあれ、3年ぶり新作ということもあり非常に楽しみですね。



12月公開予定 『永遠の僕たち』

 

2011年6月2日木曜日

《ぼくらのゼロ年代。》 メルキアデス・エストラーダの3度の埋葬

 
2005・アメリカ・フランス
監督:トミー・リー・ジョーンズ
製作総指揮:リュック・ベッソン、ピエール=アンジェ・ル・ポーガム
製作:マイケル・フィッツジェラルド、トミー・リー・ジョーンズ
脚本:ギレルモ・アリアガ
出演:トミー・リー・ジョーンズ、バリー・ペッパー、フリオ・セサール・セディージョ、ドワイト・ヨワカム、ジャニュアリー・ジョーンズ、メリッサ・レオ・・・

アメリカ・テキサス州。国境にほど近い荒れ地で、メキシコ人カウボーイ メルキアデス・エストラーダの死体が見つかる。純朴なメルキアデスを心から愛していた友人ピートは、深い悲しみに襲われながらもある約束を思いだす。「俺が死んだら、故郷ヒメネスに埋めてくれ」。ひょんなことから、メルキアデスが国境警備隊員のマイクに殺されたことを知ったピートは、マイクを拉致。彼に無理矢理メルキアデスの死体を担がせ、メキシコヘの旅に出発する・・・。

 ゼロ年代、隠れた秀作といったところだろうか。

 監督はなんと名優、トミー・リー・ジョーンズ。彼といえば、思い浮かぶのは、アメリカの荒野の過酷の中に生きてきた男の深くしわだらけの顔。でも、僕の中で彼といえば『メン・イン・ブラック』のKですかね。BOSSのCMの宇宙人ジョーンズさんといえば、思うかぶ方も多いはず。
 そんな男の中の男、トミー・リー・ジョーンズの鮮烈な監督デビューは果たした作品が『メルキアデス・エストラーダの3度の埋葬』。カンヌで男優賞と脚本賞の2賞に輝き、期待を裏切らない、いぶし銀の男の映画に仕上がっている。

  物語は、テキサスのカーボーイのピート(トミー・リー・ジョーンズ)と、流れ者のメキシコ人のメルキアデス・エストラーダの出会いから始まる。共に働くようになった彼らは、すぐに打ち解けて親友になります。メルキアデスはピートに言います。
「俺が死んだら故郷のヒメネスに埋めてほしい」
 一方、新しくこの土地の国境警備員に就任したマイク(バリー・ペッパー)は、勘違いからメルキアデスを射殺してしまいます。メルキアデスはコヨーテに食い荒らされた状態で発見されますが、事件はもみ消され、早々に捜査は打ち切られてしまう。ピートは親友との約束を果たすため、むりやりマイクを拉致し、旅に出発する。

 脚本を手掛けたのは、アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ監督とのコンビで知られるギレルモ・アリアガ。『アモーレス・ぺロス』、『21g』、『バベル』など、時間軸と場所が複雑に入り組んだ群像劇の中で、人間関係を組み立て直すことによって生と死の境界線の溶けたような、本来矛盾するはずのリアリズムと寓話性が共存する物語を紡ぎだしてきました。
 本作でそのスタイルを維持しながら、決して言葉や表情に感情を表すことのない西部男たちや、そんな男たちの社会に生きる女たちの、メランコリックな心象の向こう側にある人間そのものの孤独を浮かび上がらせています。

 こんな場面があります。妻を故郷に置いてきたため、孤独に耐えかねているメルキアデスを見かねて、ピートは彼に白人女性を紹介します。不法移民の彼は一緒に街に出ることで、国境警備隊に見つかることを心配しているのですが、ピートの「俺に任せておけ、なに大丈夫さ。」といった表情に、なにとなしに安心するというシーンです。これこそが友情の証というやつです。男泣きもの。
 
また、あまりに手厳しい主人公にいたぶられながら人生を学んでいくマイクを演じたバリー・ペッパーの役どころも面白い。人間として未熟な男、大人になりきれていない男、という役柄を体当たりでありながら、観客にこのマイクの気持ちがものすごくよく分かると思わせてしまう。というのは、劇中における「人間の弱さ」そのもののアイコンがこのバリー・ペッパー扮するマイクなのです。

 友情とは何か。贖罪とは何か。信仰とは何か。信念を持つこととは何か。・・・
実に多くの問題提起をしながら、それらをひとつひとつ作品の中で消化し、最終的には答まで提示する。同時に男の仁義や友情といったテーマを扱いながらもセンチメンタルなタッチを抑え、ラストにはいずこへと去っていく主人公の背中がほろ苦くも崇高な余韻を残す。まさにゼロ年代版男泣き映画の傑作でしょう。

PS
映画の中で出てくる盲目の老人役は、なんとザ・バンドの リヴォン・ヘルム。恐ろしくいい味出しています。


2011年5月8日日曜日

《ぼくらのゼロ年代。》 スター・ウォーズ 『エピソードⅠ ファントム・メナス』 『エピソードⅡ クローンの攻撃』 『エピソードⅢ シスの復讐』

 
1999・2002・2005.・アメリカ
監督:ジョージ・ルーカス
脚本:ジョージ・ルーカス
製作:リック・マッカラム
出演:ヘイデン・クリステンセン、ユアン・マクレガー、ナタリー・ポートマン、イアン・マクダーミド、サミュエル・L・ジャクソン、リーアム・ニーソン、ジェイク・ロイド、フランク・オズ、クリストファー・リー、アンソニー・ダニエルズ、ケニー・ベイカー・・・

 1970年代、ベトナム戦争終結等の社会風潮を受けて、内省的なアメリカン・ニュー・シネマの全盛期を迎えていました。そんな中、1977年に公開された『スター・ウォーズ』は、新世代の観客から熱狂的に迎えられて社会現象となります。観客は心から心酔できるアメリカ娯楽映画、ポジティブなストーリーに飢えていたのです。そして、旧三部作『スターウォーズ』は、それまでB級映画という扱いだったSF映画の地位を一挙に押し上げ、映画界の潮流を変えました。

 『THX1138』、『アメリカン・グラフィティ』そして『スター・ウォーズ』。ルーカス作品の共通テーマとなるのは、《現状からの脱出》です。
 旧三部作『スター・ウォーズ』もSF青春映画と言えるもので、ルーク・スカイウォーカーという田舎青年が、退屈な日常から脱出し、ロマンとチェイスにあふれた冒険譚へ向かう物語です。救世主として大宇宙へと身を乗り出してゆく様を、自らの出生を紡ぎながら描く。最終章では、帝国軍を象徴する父=ダース・べイダーを倒し、親子の確執を克服するとともに銀河系には平和が取り戻され、ルークとその仲間は英雄となる。
ゆえに、旧三部作は世界平和奪還と同時に、ルークの成長物語といういわば【陽】の物語。

 あれから16年。ルーカスは、前日譚として、ダース・ベイダーつまりルークの父親、アナキン・スカウォーカーの物語を描く。ルークの青春、成長とは真逆に、父アナキンの青春が呪われた悲劇へと向かうのは運命です。ゆえにこの新三部作のゼロ年代『スター・ウォーズ』の冒険には旧三部作のような天真爛漫とした楽しさは無い。いわば、【陰】の物語です。

よって、ゼロ年代『スター・ウォーズ』は、旧三部作をリアルタイムで体験したファンから話自体がまったくおもしろくないという批判を受けます。しかしこれは当然のことでした。なにしろ旧三部作で成功した物語のまったく逆の物語が、新三部作の軸。旧三部作のように善・悪がはっきりとした世界でもなければ、勧善懲悪の世界でもないです。善・悪がせめぎあい、誰が悪で誰が正義かもはっきりしないわかりづらい疑心暗鬼に満ちた残酷な世界。

 勿論、作品単体での観客うけのみを狙うなら、CGを駆使して最初からド派手な戦争を描けば良いし、悪役を前面押し出せば良い。そのほうが分かりやすいし、娯楽的。
 しかし、善と悪がせめぎあう混沌とした世界のなかで、少しずつ悪の側が台頭していく、そのあたりをルーカスは非常に綿密に粘り強く描いています。これはスター・ウォーズの前史としてはさけては通れない過程であり、ルーカスが観客のうけ以上に、全六作を通して完成された一貫した物語の完成を目指したと考えられます。つまり共和国の崩壊と、悪の台頭です。そこをしっかりと描くことによって、後々の壮大な物語の輪郭もはっきりとしてくるのです。
 ルークの対照となるアナキンの描き方もそう。エピソードⅡにおいて、後に銀河をゆるがすことになるアミダラとアナキンの恋が淡白に描かれていることや、アナキンの性格の悪さ、ヒーローとしてのアナキンの未熟さといったものが描かれているのは決して映画自体をおもしろくする要素ではありません。しかし、旧三部作を観たファンが感情移入できないほどアナキンを徹底的に未熟で傲慢で血気盛んな若者として描くことにより、後に続く物語がより深い意味を帯びてくることになるのです。

 そして、ゼロ年代『スター・ウォーズ』の物語の臨界点がエピソードⅢのアナキンとオビ=ワンの痛ましい決闘です。背景の塗り込まれた漆黒の中、それを切り裂くように流れる溶岩の赤。この赤がいかに鮮烈に観るものの視覚に訴えるか。また手足を切断され芋虫のごとくはいずり回るアナキンからら流れ出る血。それと相まってその赤は異様に不気味で鮮烈。これは呪われた血縁そのものを象徴している赤なのです。

 自身の父を知らないアナキンは、母のシミやアミダラの愛に飢えていました。しかし、皮肉にもそれは度重なる悲劇を生み、その悲劇は帝国軍に利用され、師であり、兄であり、父であったオビワンとの関係を引き裂きます。ダークサイドへ落ちへゆくその姿はあまりに悲痛です。

 旧三部作のルークは、ぼくらのヒーローといった印象です。それに対しこのゼロ年代『スター・ウォーズ』のアナキンは良い意味でも悪い意味でも実に人間的な弱さをもった等身大の若者の印象を受けます。
 ジェダイはいわば人の堕落の原因となる人間の個人的な執着心とひきかえに、超人的なバワーを身に着けるわけだが、アナキンはそれを捨てきれず、優れた才能をもつがゆえに傲慢になり、個人的な執着心のために禁断の恋をし、母親への愛から暴走する。若者なら誰もがもつような悩みや弱点が、後に彼が転落していくうえでの大きな原因となる。
ゼロ年代に思春期を迎えた人で、何に対しても怒りに満ち、反発し、うまく感情を表現できないアナキンの姿を、とても他人事にはとらえられなかった人は少なくないと思う。僕は旧三部作のルークよりも新三部作のアナキンの方がより感情移入できました。
 きっとルーカスはアナキンをどこにでもいる若者のカリカチュアとして描くことによって、誰もがその転落の可能性を秘めているという教訓をそこにこめているように思います。だからあえてアナキンに劇的な物語を用意せず、淡々と彼が堕落していく様を描いている。アナキンの姿は、閉塞的なゼロ年代を生きる若者の象徴です。



 これまでの『スター・ウォーズ』に欠けていたものは、人間のもつ根源的弱さと悲惨な末路、つまり物語上の“ダークサイド”。そして、これがスクリーンで展開され、【陰】と【陽】がせめぎあうとき、初めて『スター・ウォーズ』はその神話体系としての全貌を現すのでしょう。

 『スター・ウォーズ』、僕を映画狂にした罪深き作品です。





2011年5月5日木曜日

《ぼくらのゼロ年代。》ザ・ロイヤル・テネンバウムズ



2001・アメリカ
監督:ウェス・アンダーソン
製作総指揮:オーウェン・ウィルソン、ラッド・シモンズ
製作:ウェス・アンダーソン、バリー・メンデル、スコット・ルーディン
脚本:ウェス・アンダーソン、オーウェンウィルソン
出演:ジーン・ハックマン、アンジェリカ・ヒューストン、グウィネス・パルトロー、ベン・スティラー、ルーク・ウィルソン、オーウェン・ウィルソン、ビル・マーレイ、ダニー・クローヴァー、シーモア・カッセル、アレック・ボールドウィン・・・

 テネンバウム家の長男・チャス(ベン・スティーラー)は10代で金融ビジネスマン、養女のマーゴ(グウィネス・パルトロウ)は同じく10代で劇作家、次男のリッチー(ルーク・ウィルソン)は天才テニス選手。そんな天才一家も、有能な弁護士だった父・ロイヤル(ジーン・ハックマン)の不誠実で離れ離れ。妻・エセル(アンジェリカ・ヒューストン)と別居して22年、家族と何年も口を聞いていないロイヤルは、滞在するホテルの支払いも滞り、もう一度「家族」を取り戻そうと一計を案じる…。

 ゼロ年代にその才能を花開かせたフィルムメーカーのひとりとして、ウェス・アンダーソンの名を上げるのは、まず間違いないだろう。1969年生まれの彼は、70年代のポップソングのように、力強くカラフルで、ナイーブで、心優しい作品を特徴とする才能。

 彼の名をまず世に知らしめたのが、98年の『天才マックスの世界』である。この作品は人と違うことの孤独感を全く見せない天才少年マックスの、恋愛と成の青春物語、意思疎通の不全を主題とした半自伝といえる。またこの作品に展開される、偏屈的にまでに管理された色彩や小道具や音楽によってえがかれる人工的な映像は、「天才ウェスの世界」として、その後の作品にも受け継がれ、いわゆる《作家性》というやつとして確立してゆく。また、意思疎通の不全はウェス作品の共通テーマです。


 そして、その作家性を貫き通し、カルト的人気から見事大衆からの支持を勝ち取った傑作が本作『ザ・ロイヤル・テネンバウムズ』。

 地方都市の名家の栄光と没落を描いたオーソン・ウェルズの『偉大なるアンバーソン家の人々』にインスパイアを受けたという本作は、ジーン・ハックマン扮する放蕩親父に翻弄されてきた元・天才のテネンバウムス家という家族の現在を描く物語です。テネンバウムス家の子供たちは幼くしてそれぞれの才能を発揮した元・天才なのである。だがそんな彼らは現在、成長とともに壁にぶつかり、人生の道を進ない。そんな過去という殻を破れずにいる、半分大人。彼らの苦悩の根底にあるのは父親の愛情の欠乏とコミュニケーション不全。それが解決せぬまま両親は離婚し、子供たちは大人になってしまった・・・。

 しかし、これを聞くと、シリアスドラマかと思うかもしれなが、本作はポップコメディ。というのも、家族と彼らを取り巻く人々のキャラクターが濃く、滑稽で思わず笑ってしまうような奴ら。ふつう、退屈なシリアスドラマとして描かれるような題材にもかかわらず、人間味あふれるキャラとポップな音楽でコメディ調で描きつつ、コメディには終わらず登場人物の内なる心をしっかり描写し、再生へと結び付ける。これはウェス作品持ち味となっています。

前に続き、テーマは意思の疎通不全(これは続く『ダージリン急行』にも受け継がれます。)そして家族という場の完全に構築された映像によって、この家族の自閉的で観念的な世界をポップな感性で映像化している。 彼らは自分の抱えている問題で頭がいっぱいになり、他人のことが見えなくなっている。挫折感を味わったことで、臆病気味でもある。
 このように、家族でありながらお互いがお互いを理解できず、まるで他人のようになってしまっているという家族という最少単位の集団における絆の希薄化とその再生は、ゼロ年代映画の大きな特徴のひとつと言えます。例を挙げるならば、『アメリカンビューティー』、『あの頃ペニー・レインと』、『ビック・フィッシュ』、『宇宙戦争』、『チェンジリング』、『終わりで始まりの4日間』、『イン・トゥ・ザ・ワイルド』など。邦画では『トウキョウソナタ』など。《家族》がテーマの作品が量産された時代ですね。これは、アメリカ式の個人主義の限界を深層心理的に訴えています。

 そして本作で、そんな孤独な家族の内なる感情をあぶりだすのが、見事に選曲された70年代の音楽の数々。ウェス・アンダーソンは抑圧された感情を音楽の力によって解き放ちます。このように映画における音楽というファクターが見直され、ストーリーテリングにおける重要な役割として採用する作家もゼロ年代的な印象を受けます。 
とくにウェス・アンダーソン、キャメロン・クロウ、ジャック・ブラフ、ジェイソン・ライトマンなどはその手腕は、ハル・アシュビーの『ハロルドとモード』、マーティン・スコセッシの『ミーン・ストリート』に優るとも劣りません。

 『ザ・ロイヤル・テネンバウムズ』。いま生きることに手をこまねいている人へ向けた贈り物のような映画といえるでしょう。