2011年5月8日日曜日

《ぼくらのゼロ年代。》 スター・ウォーズ 『エピソードⅠ ファントム・メナス』 『エピソードⅡ クローンの攻撃』 『エピソードⅢ シスの復讐』

 
1999・2002・2005.・アメリカ
監督:ジョージ・ルーカス
脚本:ジョージ・ルーカス
製作:リック・マッカラム
出演:ヘイデン・クリステンセン、ユアン・マクレガー、ナタリー・ポートマン、イアン・マクダーミド、サミュエル・L・ジャクソン、リーアム・ニーソン、ジェイク・ロイド、フランク・オズ、クリストファー・リー、アンソニー・ダニエルズ、ケニー・ベイカー・・・

 1970年代、ベトナム戦争終結等の社会風潮を受けて、内省的なアメリカン・ニュー・シネマの全盛期を迎えていました。そんな中、1977年に公開された『スター・ウォーズ』は、新世代の観客から熱狂的に迎えられて社会現象となります。観客は心から心酔できるアメリカ娯楽映画、ポジティブなストーリーに飢えていたのです。そして、旧三部作『スターウォーズ』は、それまでB級映画という扱いだったSF映画の地位を一挙に押し上げ、映画界の潮流を変えました。

 『THX1138』、『アメリカン・グラフィティ』そして『スター・ウォーズ』。ルーカス作品の共通テーマとなるのは、《現状からの脱出》です。
 旧三部作『スター・ウォーズ』もSF青春映画と言えるもので、ルーク・スカイウォーカーという田舎青年が、退屈な日常から脱出し、ロマンとチェイスにあふれた冒険譚へ向かう物語です。救世主として大宇宙へと身を乗り出してゆく様を、自らの出生を紡ぎながら描く。最終章では、帝国軍を象徴する父=ダース・べイダーを倒し、親子の確執を克服するとともに銀河系には平和が取り戻され、ルークとその仲間は英雄となる。
ゆえに、旧三部作は世界平和奪還と同時に、ルークの成長物語といういわば【陽】の物語。

 あれから16年。ルーカスは、前日譚として、ダース・ベイダーつまりルークの父親、アナキン・スカウォーカーの物語を描く。ルークの青春、成長とは真逆に、父アナキンの青春が呪われた悲劇へと向かうのは運命です。ゆえにこの新三部作のゼロ年代『スター・ウォーズ』の冒険には旧三部作のような天真爛漫とした楽しさは無い。いわば、【陰】の物語です。

よって、ゼロ年代『スター・ウォーズ』は、旧三部作をリアルタイムで体験したファンから話自体がまったくおもしろくないという批判を受けます。しかしこれは当然のことでした。なにしろ旧三部作で成功した物語のまったく逆の物語が、新三部作の軸。旧三部作のように善・悪がはっきりとした世界でもなければ、勧善懲悪の世界でもないです。善・悪がせめぎあい、誰が悪で誰が正義かもはっきりしないわかりづらい疑心暗鬼に満ちた残酷な世界。

 勿論、作品単体での観客うけのみを狙うなら、CGを駆使して最初からド派手な戦争を描けば良いし、悪役を前面押し出せば良い。そのほうが分かりやすいし、娯楽的。
 しかし、善と悪がせめぎあう混沌とした世界のなかで、少しずつ悪の側が台頭していく、そのあたりをルーカスは非常に綿密に粘り強く描いています。これはスター・ウォーズの前史としてはさけては通れない過程であり、ルーカスが観客のうけ以上に、全六作を通して完成された一貫した物語の完成を目指したと考えられます。つまり共和国の崩壊と、悪の台頭です。そこをしっかりと描くことによって、後々の壮大な物語の輪郭もはっきりとしてくるのです。
 ルークの対照となるアナキンの描き方もそう。エピソードⅡにおいて、後に銀河をゆるがすことになるアミダラとアナキンの恋が淡白に描かれていることや、アナキンの性格の悪さ、ヒーローとしてのアナキンの未熟さといったものが描かれているのは決して映画自体をおもしろくする要素ではありません。しかし、旧三部作を観たファンが感情移入できないほどアナキンを徹底的に未熟で傲慢で血気盛んな若者として描くことにより、後に続く物語がより深い意味を帯びてくることになるのです。

 そして、ゼロ年代『スター・ウォーズ』の物語の臨界点がエピソードⅢのアナキンとオビ=ワンの痛ましい決闘です。背景の塗り込まれた漆黒の中、それを切り裂くように流れる溶岩の赤。この赤がいかに鮮烈に観るものの視覚に訴えるか。また手足を切断され芋虫のごとくはいずり回るアナキンからら流れ出る血。それと相まってその赤は異様に不気味で鮮烈。これは呪われた血縁そのものを象徴している赤なのです。

 自身の父を知らないアナキンは、母のシミやアミダラの愛に飢えていました。しかし、皮肉にもそれは度重なる悲劇を生み、その悲劇は帝国軍に利用され、師であり、兄であり、父であったオビワンとの関係を引き裂きます。ダークサイドへ落ちへゆくその姿はあまりに悲痛です。

 旧三部作のルークは、ぼくらのヒーローといった印象です。それに対しこのゼロ年代『スター・ウォーズ』のアナキンは良い意味でも悪い意味でも実に人間的な弱さをもった等身大の若者の印象を受けます。
 ジェダイはいわば人の堕落の原因となる人間の個人的な執着心とひきかえに、超人的なバワーを身に着けるわけだが、アナキンはそれを捨てきれず、優れた才能をもつがゆえに傲慢になり、個人的な執着心のために禁断の恋をし、母親への愛から暴走する。若者なら誰もがもつような悩みや弱点が、後に彼が転落していくうえでの大きな原因となる。
ゼロ年代に思春期を迎えた人で、何に対しても怒りに満ち、反発し、うまく感情を表現できないアナキンの姿を、とても他人事にはとらえられなかった人は少なくないと思う。僕は旧三部作のルークよりも新三部作のアナキンの方がより感情移入できました。
 きっとルーカスはアナキンをどこにでもいる若者のカリカチュアとして描くことによって、誰もがその転落の可能性を秘めているという教訓をそこにこめているように思います。だからあえてアナキンに劇的な物語を用意せず、淡々と彼が堕落していく様を描いている。アナキンの姿は、閉塞的なゼロ年代を生きる若者の象徴です。



 これまでの『スター・ウォーズ』に欠けていたものは、人間のもつ根源的弱さと悲惨な末路、つまり物語上の“ダークサイド”。そして、これがスクリーンで展開され、【陰】と【陽】がせめぎあうとき、初めて『スター・ウォーズ』はその神話体系としての全貌を現すのでしょう。

 『スター・ウォーズ』、僕を映画狂にした罪深き作品です。





2011年5月5日木曜日

《ぼくらのゼロ年代。》ザ・ロイヤル・テネンバウムズ



2001・アメリカ
監督:ウェス・アンダーソン
製作総指揮:オーウェン・ウィルソン、ラッド・シモンズ
製作:ウェス・アンダーソン、バリー・メンデル、スコット・ルーディン
脚本:ウェス・アンダーソン、オーウェンウィルソン
出演:ジーン・ハックマン、アンジェリカ・ヒューストン、グウィネス・パルトロー、ベン・スティラー、ルーク・ウィルソン、オーウェン・ウィルソン、ビル・マーレイ、ダニー・クローヴァー、シーモア・カッセル、アレック・ボールドウィン・・・

 テネンバウム家の長男・チャス(ベン・スティーラー)は10代で金融ビジネスマン、養女のマーゴ(グウィネス・パルトロウ)は同じく10代で劇作家、次男のリッチー(ルーク・ウィルソン)は天才テニス選手。そんな天才一家も、有能な弁護士だった父・ロイヤル(ジーン・ハックマン)の不誠実で離れ離れ。妻・エセル(アンジェリカ・ヒューストン)と別居して22年、家族と何年も口を聞いていないロイヤルは、滞在するホテルの支払いも滞り、もう一度「家族」を取り戻そうと一計を案じる…。

 ゼロ年代にその才能を花開かせたフィルムメーカーのひとりとして、ウェス・アンダーソンの名を上げるのは、まず間違いないだろう。1969年生まれの彼は、70年代のポップソングのように、力強くカラフルで、ナイーブで、心優しい作品を特徴とする才能。

 彼の名をまず世に知らしめたのが、98年の『天才マックスの世界』である。この作品は人と違うことの孤独感を全く見せない天才少年マックスの、恋愛と成の青春物語、意思疎通の不全を主題とした半自伝といえる。またこの作品に展開される、偏屈的にまでに管理された色彩や小道具や音楽によってえがかれる人工的な映像は、「天才ウェスの世界」として、その後の作品にも受け継がれ、いわゆる《作家性》というやつとして確立してゆく。また、意思疎通の不全はウェス作品の共通テーマです。


 そして、その作家性を貫き通し、カルト的人気から見事大衆からの支持を勝ち取った傑作が本作『ザ・ロイヤル・テネンバウムズ』。

 地方都市の名家の栄光と没落を描いたオーソン・ウェルズの『偉大なるアンバーソン家の人々』にインスパイアを受けたという本作は、ジーン・ハックマン扮する放蕩親父に翻弄されてきた元・天才のテネンバウムス家という家族の現在を描く物語です。テネンバウムス家の子供たちは幼くしてそれぞれの才能を発揮した元・天才なのである。だがそんな彼らは現在、成長とともに壁にぶつかり、人生の道を進ない。そんな過去という殻を破れずにいる、半分大人。彼らの苦悩の根底にあるのは父親の愛情の欠乏とコミュニケーション不全。それが解決せぬまま両親は離婚し、子供たちは大人になってしまった・・・。

 しかし、これを聞くと、シリアスドラマかと思うかもしれなが、本作はポップコメディ。というのも、家族と彼らを取り巻く人々のキャラクターが濃く、滑稽で思わず笑ってしまうような奴ら。ふつう、退屈なシリアスドラマとして描かれるような題材にもかかわらず、人間味あふれるキャラとポップな音楽でコメディ調で描きつつ、コメディには終わらず登場人物の内なる心をしっかり描写し、再生へと結び付ける。これはウェス作品持ち味となっています。

前に続き、テーマは意思の疎通不全(これは続く『ダージリン急行』にも受け継がれます。)そして家族という場の完全に構築された映像によって、この家族の自閉的で観念的な世界をポップな感性で映像化している。 彼らは自分の抱えている問題で頭がいっぱいになり、他人のことが見えなくなっている。挫折感を味わったことで、臆病気味でもある。
 このように、家族でありながらお互いがお互いを理解できず、まるで他人のようになってしまっているという家族という最少単位の集団における絆の希薄化とその再生は、ゼロ年代映画の大きな特徴のひとつと言えます。例を挙げるならば、『アメリカンビューティー』、『あの頃ペニー・レインと』、『ビック・フィッシュ』、『宇宙戦争』、『チェンジリング』、『終わりで始まりの4日間』、『イン・トゥ・ザ・ワイルド』など。邦画では『トウキョウソナタ』など。《家族》がテーマの作品が量産された時代ですね。これは、アメリカ式の個人主義の限界を深層心理的に訴えています。

 そして本作で、そんな孤独な家族の内なる感情をあぶりだすのが、見事に選曲された70年代の音楽の数々。ウェス・アンダーソンは抑圧された感情を音楽の力によって解き放ちます。このように映画における音楽というファクターが見直され、ストーリーテリングにおける重要な役割として採用する作家もゼロ年代的な印象を受けます。 
とくにウェス・アンダーソン、キャメロン・クロウ、ジャック・ブラフ、ジェイソン・ライトマンなどはその手腕は、ハル・アシュビーの『ハロルドとモード』、マーティン・スコセッシの『ミーン・ストリート』に優るとも劣りません。

 『ザ・ロイヤル・テネンバウムズ』。いま生きることに手をこまねいている人へ向けた贈り物のような映画といえるでしょう。

2011年5月3日火曜日

《ぼくらのゼロ年代。》 あの頃ペニー・レインと

2000・アメリカ
監督:キャメロン・クロウ
製作:キャメロン・クロウ、イアン・ブライス
脚本:キャメロン・クロウ
出演:パトリック・フュジット、ケイト・ハドソン、ビリー・グラダップ、フランシス・マクドーマンド、ジェイソン・リー、アンナ・パキン、フェアルザ・バルク、ノア・テイラー、ズーイー・デシャネル、フィリップ・シーモア・ホフマン、テリー・チェン・・・

1973年、大学教授の母(フランシス・マクドーマンド)と暮らす知的で陽気な15歳の少年ウィリアム(パトリック・フュジット)は、姉アニタ(ズーイー・デシャネル)が教えたロック音楽の魅力に取り憑かれ、学校新聞などにロック記事を書いていた。やがて、伝説のロック・ライターでクリーム誌の編集長、レスター・バングス(フィリップ・シーモア・ホフマン)に認められ、さらにローリングストーン誌からも声がかかり、ウィリアムが愛する新進バンド、スティルウォーターのツアーに同行取材をすることになる。そして、このバンドを追う少女たちの中にいた、一際美しいペニー・レイン(ケイト・ハドソン)に恋をする・・・。


 僕の中でのゼロ年代最大の青春ムービー。監督キャメロン・クロウの実体験を下敷きに描かれる「想い」のいっぱい詰め込まれたラブレターのような映画は、大人なら多かれ少なかれ誰もが通ってきたであろう『青春の日々』を呼び起こします。
 1969年。ウィリアム(クロウの分身)は自分が二年飛び級していたことを突然知らされて驚きます。扮する彼の母親(フランシス・マクドーマンド)は大学の教育者で教育には一際強い持論がある。そんな母に反発する姉(ズーイー・デシャネル)は街へ出てスチュワーデスになることを夢見ています。ある日、彼女は母親に自分の気持ちを理解してほしくて、サイモン&ガーファンクルの『アメリカ』を聴かせます。しかし、ロック否定派の母には伝わらない。彼女は大切なレコードたちを愛する弟に残し、二人に別れを告げ、家を出て行く・・・。頭にはカーラーを巻いたまま・・・。
 このシーンが素晴らしいのは、一見いがみ合って見える親子、母と姉が親子という関係や年齢を超えて対等に向き合い、心の底ではお互いがお互いを認め合っていることを非常に丁寧に伝わってくることです。


 1973年。15歳になったウリィアムは尊敬する音楽評論家レスター・バンクス(フィリップ・シーモア・ホフマン)と出会い、ライターとしての心得を授けられます。「評論家で成功したけりゃ、正直に手厳しく書け。行き詰ったら電話しろ。夜中でもいい。」そして彼の雑誌クリーム・マガジで記事を書くことになり、こうしてウィリアムの人生は本格的に動き始めます。
  本作は少年と大人たちとの出会いの連鎖を見つめた物語です。ウィリアムの一番身近な大人だった姉から教えられたロックの世界はレスター・バンクスとの出会いにつながり、彼との出会いはスティルウォーターやペニー・レインとの出会い、ローリングストーン誌での執筆につながって行きます。
 ひとはひととの出会い、また出会いを生み、成長し人生が形成されてゆく。少年を取り巻く大人たちは、その不完全さゆえに、意志と覚悟、孤
独と優しさをにじませていて、それらすべてがウィリアムへと引き継がれてゆくさまは実に美しい。実はこの過程にこそこの映画の魅力があり、人々に共感と感動を与えます。
 きっと、何かにのめり込むことで、持て余す若さのエネルギーを漠然と発散していた頃を経験した事のある方なら、何らかの感情を抱くと思います。
 大学1年時に観たときの感動は今でも忘れない。大人になる近道は一人で旅に出ることだと背中を押してくれた作品。危ないからといって何もさせない親の気持ちも理解できますが自立とは自らの意思で責任ある行動をとることであって、いつまでも親の指示に従っていては、判断の機会が与えられないっ。そう思います。


でもやっぱり、ペニー・レインと彼女を演じたケイト・ハドソン。彼女は少年が大人になる過程で出会い、恋をする女性に必要なすべてを持っている。


最近、友人に勧められた動画。『あの頃ペニー・レインと』を観たときに似た感覚がふつふつとこみ上げてきた。山崎さん、最高です。