2011年2月27日日曜日

十二人の怒れる男


1957・アメリカ
監督:シドニー・ルメット
製作:レジナルド・ローズ、ヘンリー・フォンダ
脚本:レジナルド・ローズ
出演:マーティン・バルサム、ジョン・フィードラー、リー・J・コッブ、E・G・マーシャル、ジャック・クラグマン、エドワード・ビンズ、ジャック・ウォーデン、ヘンリー・フォンダ、ジョセフ・スィーニー、エド・ベグリー、ジョージ・ヴォスコヴェック、ロバート・ウェッバー

 ニューヨークの法廷で殺人事件の審理が終わった。被告は17歳の少年で、日頃から不良といわれ、飛び出しナイフで実父を殺した容疑だった。12人の陪審員が評決のため陪審室に引きあげてきた。夏の暑い日で彼らは疲れきっており、早く評決を済ませ家に帰りたがっていた。第1回の評決は11対1で有罪が圧倒的、しかし、判決は全員一致でなければならなかった。無罪は第8番ただ1人。彼は不幸な少年の身の上に同情し、犯人かもしれないが有罪の証拠がないといった…。


 この作品は討論劇として世界的といえる傑作中の傑作中の傑作であり、この作品の影響は今も息の長い活動を続ける社会派サスペンスの名匠シドニー・ルメット監督の駆け出しとなった作品です。おそらく邦画ディスカッションものといえば『羅生門』、洋画ディスカッションものといえば本作『十二人の怒れる男』でしょう。

 この映画を観てまず痛感することは、制作費をいくらかけようとシナリオや展開つまり脚本が面白くなければ全く意味がないということです。それくらい『十二人の怒れる男』の脚本は素晴らしい。邦画、洋画問わず、エンタメ娯楽映画、芸術文芸映画問わず、優れた作品の基本には優れた脚本があるのは明らかです。そこで、これも洋画、邦画問わずいえることだと思うのですが、最近、人物設定や構成が不十分で行き届いておらず脚本のデキが拙いものが目立つような気がするのは僕だけでしょうか。
 まず『十二人の怒れる男』では、舞台として、窮屈で殺風景な陪審員室しか映し出されません。よって、脚本の拙さを美しい映像や迫力ある場面で誤魔化すことはまず出来ません。また、出演者たちもおじさんばかりで、アイドル女優などで観客を惹くこともできないヒロイン不在の映画です。つまり、このような“制約”ある環境では脚本の出来不出来が“命”といえます。もし、『十二人の…』の脚本がひどかったらそれこそ世界各地で暴動が起きるでしょう。
 以前『ラジオの時間』の投稿でも触れましたが、“制約”のなかでお話自体の面白さを最大限に増幅される手法は三谷幸喜氏の得意とするもので、それの証拠に本作のリメイク『12人の優しい日本人』を制作しています。


 この映画にでてくる12人の陪審員は、結局最後まで名前は分かりません。お互いを番号でのみ知っているだけなのです。ですが、12人の登場人物一人一人の性格・生い立ち・価値観・社会的立場・抱える問題や利害関係など考え尽くされていていて一人一人の個性が観ていてはっきりと伝わってくるのです。まるで全員が実在の人間のような実感があり、台詞一つ一つが生きているため劇中の討論がリアルでなおかつ迫力が凄まじい。

 評決は全員一致でなければなりません。有罪の評決が出れば、少年は電気いすで死刑になることが決まっています。そんな中、1回目の投票では、ヘンリー・フォンダ扮するただ一人の陪審員だけが「無罪」を主張します。圧倒的多数の11人は「有罪」でした。陪審員たちの空気は、明らかにヘンリー・フォンダに冷たい。「なぜ1人だけ、みんなと違うことを言うんだ・・・。どこにでもいるんだ、そういう奴って・・・。」   「人の命を5分で決めてもし間違っていたら? 1時間話そう!」
会議で1人異議を唱える者が主役のヘンリー・フォンダなので、やがては主人公の主張が支持されて全会一致になるのは予想できるでしょう。にもかかわらずリアリズムや説得力を増しながら最後まで観客をドキドキさせて行く映画力はスゴイ。

 いかに、自分達は先入観と偏見に満ちていて、それを通さずに物事を考えることがいかに難しいかを、本当に思い知らされます。もしもあの時、あの場にたった1人でも「無罪」を主張する勇気ある陪審員がいなかったら、一人の命が奪われてしまっていた。
 話し合いの場で 全員が先入観や思い込み、偏見、いい加減な気持ちで評決を下し、それが人の命を左右させてしまう。異論を唱える者に空気が読めないというレッテルを貼り付け、自分自身が納得できる意見を持つことに畏縮してしまう。本作は、徹底した討論が人の命をも救うという民主主義の素晴らしさを描いている反面、多数派が少数派を迫害し、成り行きのままの「予定調和」に陥る民主主義の恐怖をもあぶりだしています。
 お互いに名も知らないものたちがそれぞれ分かれ去っていくシーンは、本当に良い余韻を残してくれます。

 映画の道を志す人、小説の道を志す人は本当に観てほしい映画です。

 今回は法学部生らしい映画を紹介してみましたっ!

2011年2月22日火曜日

ブロークバック・マウンテン


2005・アメリカ
監督:アン・リー
製作総指揮:ラリー・マクマートリー、ウィリアム・ポーラッド、マイケル・コスティガン、マイケル・ハウスマン
製作:ダイアナ・オサナ、ジェームス・シェイマス
脚本:ラリー・マクマートリー、ダイアナ・オサナ
出演:ヒース・レジャー、ジェイク・ギレンホール・・・

 1963年、ワイオミング州ブロークバック・マウンテン。農場に季節労働者として雇われたイニスとジャックはともに20歳の青年。対照的な性格だったが、キャンプをしながらの羊の放牧管理という過酷な労働の中、いつしか精神的にも肉体的にも強い絆で結ばれていく。やがて山を下りたふたりは、何の約束もないまま別れを迎える。イニスは婚約者のアルマと結婚、一方のジャックは定職に就かずロデオ生活を送っていた・・・。

 今回ご紹介する作品は『ブロークバック・マウンテン』。この作品は、男同士の友情を超えてしまった関係を描いているため、思わず観ることをためらってしまうかもしれません。しかし、この作品は、男同士の愛を貫いた2人を通して人間の“普遍の愛”を描く人間ドラマなのです。鑑賞後には、観る前に少し引いてしまっていた自分が馬鹿みたいに思えました。はたしてここまで人間の愛というものに正面から向き合い、最後まで徹底的に描いた作品があっただあろうか。
ちなみに僕にそっちの気はないです。

 禁断の恋といえば、往年の『ロミオとジュリエット』、『うたかたの恋』、『タイタニック』などがありますが、本作『ブロークバック・マウンテン』は、“愛すること”が偏見と差別がゆえに過酷な状況のもとにおかれた物語。これまで映画を観続けてきましたが、切なさという観点でこの映画はそれら作品群から頭ひとつ、いやふたつ以上は抜きんでています。

 まず注目すべきは主演の二人、ヒース・レジャー扮するイニスとジェイク・ギレンホール扮するジャックのキャラクター設定。この二人はいわゆる“カウボーイ”として映画に登場します。“カウボーイ”といえば、セルジオ・レオーネ監督、イーストウッド監督作品に代表されますが、アメリカではもちろんのこと世界的な映画における“男”の象徴ともいえる存在です。しかし、この映画の中では、それが従来型の価値観や世間体、そして“しがらみ”を意味する皮肉なメタファーとして機能しています。イニスとジャックもそれにならい、立派なカウボーイを志して生きてきました。しかし、現実の彼らに職はなく、映画で見るようなカウボーイのカッコよさにはほど遠いのです。要するに、彼らは人生の“負け組”。そして、それは映画冒頭ではっきりと提示されます。

 そんな2人は、まるで自分たちしかこの世に存在しないかのような壮大な自然の袂で、互いを援け合い、そして戯れるウチに、相手の心に一時の連帯感や友情だけでは括れない“何か”を強く感じ合い始めます。外は凍えるような寒さの夜のテントの中、2人がついに一線を越えて体を交わすシーンは、その生々しさというよりもむしろ、まるで心に欠けているものを互いの体を貪ることで補い合っているかのように見えます。それが、痛く、そして途轍もなく哀しい。

 しかし、ただただ同性愛を描くだけでは観ていて全く感情移入できず、むしろ観た後に心地悪さを感じてしまいかねません。そこで本作では同性愛を外側からの視点も非常に大切にしています。例えば、次のシークエンスです。イニスが許婚者のアルマと結婚して二人の娘をもうけ、暮らしてるところへジャックが彼を訪ねて来ます。二人の関係は一気に再燃し、再会の抱擁の後で熱いキスを交わす。しかし、イニスの妻アルマはその一部始終を目撃していしまう。ここから、アルマは自分の夫がゲイでることを知りながら、その秘密を一人で抱きしめたまま何とか夫婦生活を続けようとする。そこで観るものはその「耐える女」の切なき姿に感情移入し、アルマの側からイニスとジャックの関係を見ることとなるのです。セックスの際、彼女が避妊を要求する場面があります。「生活費が足りないのでこれ以上は子供を埋めない」と彼女は言うのです。すると、イニスは「俺の子供を産みたくないのならお前とはしない」と怒ります。このシーンの生活云々というセリフの奥に潜むアルマの別の感情を、そこはかとなく感じさせる繊細なアン・リー監督の描写は絶品と言えます。

 僕はこの『ブロークバック・マウンテン』に漂い観るものを決して逃さない凄まじいまでの“切なさ”は、行き場のない環境下での同性愛というものを内側と外側の両者から描き、さらに両者どちらにも感情移入させることに成功しているからなのではと思います。

 たとえしがらみや世間体を捨てたことで孤独の深淵に追い詰められたとしても、たとえ世の中から冷たい視線を向けられて自分の味方がただの1人もいなくなったとしても、心の中に確かな“何か”があれば、人は、涙に暮れながらでも生きてゆくことができる・・・。涙を耐えながら噛みしめるようにつぶやくイニスの姿を映し出すラストシーンはそんなことを僕たちに教えてくれます。イニスを演じたのは、ヒース・レジャー。映画界は本当に大きな存在を喪ったのだと実感しました。


 この映画は、同性愛を単純に描いたものではなく、それを通して社会の少数派への偏見や差別を浮かび上がらせているのだと思います。これは別に同性愛でなくともマイノリティーで、差別を恐れるあまり、自分に正直に生きることができない人間が周囲を巻きこむ悲劇だと思いました。差別が“世の中のしがらみ”でもいいんだと皆、他にどうしようもない人生を、それぞれ懸命に生きているのに、その姿が切ない。


 鑑賞後、きっと頭の中から「偏見」の二文字は消えます。鑑賞後と鑑賞前、その人の価値観を変えてしまう力のある映画を僕たちは「良い映画」と言うべきではないのでしょうか。




 

2011年2月15日火曜日

トゥモロー・ワールド


2006・アメリカ、イギリス
監督:アルフォンソ・キュアロン
製作総指揮:トーマス・エー・ブリス、アーミアン・バーンスタイン
製作:トーマス・エー・ブリス、ヒラリー・ショー、トニー・スミス、エリック・ニューマン、イエン・スミス
脚本:アルフォンソ・キュアロン、ティモシー・J・セクストン
出演:クライヴ・オーウェン、ジュリアン・ムーア、マイケル・ケイン、キウェテル・イジョフォー、クレア=ホープ・アシティー・・・

 H・G・ウェルズ『タイム・マシン』、ジュール・ヴェルヌ『20世紀のパリ』に始まり、映画ではキューブリックの『時計仕掛けのオレンジ』、ギリアムの『未来世紀ブラジル』、ルーカスの『THX-1138』、キャメロンの『ターミネーター』、ゴダールの『アルファヴィル』、アンドリュー・ニコルの『ガタカ』・・・時代を牽引してきたSFクリエイターたちは揃って、徹底的な管理・統制により自由が奪い、住民を洗脳し、体制に反抗する者には治安組織が制裁を加え社会から排除するという暗黒の未来を描いたディストピア作品を創り出してきました。
 そして、今、そんな歴代の巨匠たちのペスミスティックな遺伝子を受け継ぎ、独特の世界観を確立してディストピア作品を描ききる映像作家アルフォンソ・キュアロン。そのディストピア世界とは、西暦2027年、少子化を飛び越えて“無子化”の世界。この時代の人類最年少はなんと18歳。つまり18年間、新生児は誕生していないのです。原因は不明で、希望を失った世界には内戦やテロが頻発し、世界のほとんどの国家はことごとく壊滅状態。ほぼ唯一、強力な軍隊で国境を守る英国だけが、ぎりぎりの秩序を保っている状況。

 あらすじは、
 西暦2027年。ロンドンには移民が溢れ、当局は移民たちを厳しく取り締まっていた。街にはテロが横行し、全てが殺伐としていた。18年間、人類には子どもが誕生しておらず、人々は未来のない世界を生きていた。ある日、エネルギー省官僚のセオは、元妻・ジュリアンが率いる地下組織FISHに拉致される。彼らはセオを利用し、人類救済組織“ヒューマン・プロジェクト”に、人類の未来を担う一人の少女を届けようとしていたのだ・・・。

  物語冒頭、冒頭セオ(クライヴ・オーウェン)がコーヒーショップでそれとなくテレビを見ている。内容は世界最年少の18歳の熱狂的なファンが刺されて死亡したというもの。コーヒーを買い、店から出て(その瞬間、ガラスのドアには店外の風景が美しく映っている。)歩道をゆっくりと左へと歩いて行く。手持ちカメラが180度転換され、コーヒーを置いた瞬間、さっきまでいたコーヒーショップが爆破。片腕がちぎれた女性がおくで悲鳴を上げている。次のカットでタイトルクレジット、「CHILDREN OF MEN」(原題)。これを観て、この映画がただならぬものであることは瞬時に感じ取ります。なんでかというと、これら一連の流れをワンショットで撮ってしまっているから。

 本作『トゥモロー・ワールド』の凄まじいところは、なんといってもその映像技術《長回し》です。
 現在、平均的なハリウッド映画では一時間あたり1000前後のカット割りが施されていると言われています。そして、映画を観ている人はカットが割られた瞬間に、あぁこれは映画なんだと認識します。なぜならカット割りとは映像作品独特の手法で、当たり前ですが、現実では目を瞑らない限りカット割りはないですよね。そこで、登場するのが長回しという技法です。この長回しは、途中でカットがとぎれないため、観るものを映像世界に引きずり込み、まるで主人公の横で映画の中で起きることをリアルに体験させることを可能にします。いわば「見せる画面」への究極の到達点的技術といえるでしょう。
 しかし、実はこの《長回し》は悪魔の技法で、溝口健二『唐人お吉』からオーソン・ウェルズ、ワイラーを経由し、ゴダール、アンゲロプロス、アルトマン、デ・パルマ、相米慎二、そして黒沢清まで、《長回し》という悪魔は多くの映像作家を魅了してきました。しかし、特に複雑な移動撮影と併用される時には、リハーサル、時間、照明、演技、あらゆる犠牲と情熱により成り立つ贅沢の極みであり、プロデューサーには疎まれ、それによって身を破滅させた作家も後を絶たちません。

 そして、本作『トゥモロー・ワールド』、『黒い罠』や『カリートの道』のような冒頭やラストのワンシークエンスだけではなく、あろう事か前編通して全員一致の協力体制の下に完璧にやってのけているのです。ヒッチコックの『ロープ』のような室内劇を除けば、これは完成度的、技術的に言って大作映画史上初といっていいでしょう。



 長回しの名手溝口健二の全盛期を支えた脚本家、依田義賢氏は長回しは強い力のこもった、凝縮した演技の凝集と連続がなければ画面は保てない」と言っています。
 本作で例を挙げるならば、ジュリアン・ムーアが撃たれる約12分の長回しシーン。ここでは、非常に多くの出来事が連続している点が大きな特徴です。出来事は、例えばピンポン玉を口から口へと飛ばして受けたり、通行する車の前を絶妙のタイミングで斜面から滑り落ちて来た車が塞ぐといったもの。それら信じられない高度なアクション、特撮が訪れては去って行きます。
 その信じられないというのは、時間と空間とのタイミングにおけるアクションの難易度が高いということです。例えば斜面を滑り落ちる車は、時間的に少しでもズレてしまえば長回しはすべてが「はいっ、最初からやり直し~。」なのであるし、ピンポン玉の口移しにしても、仮にあれが合成なり特撮だとしても、少なくとも画面上は見事に観るものを騙している。その難易度が高ければ高いほど、そこにひたすら「連続性の驚き」を実感せずにはいられないのです。前記の依田氏の上げた長回しの基本を実に忠実にクリアしているのが分かります。

 今例に上げたシーンもかなりショッキングですが、なんと言ってもラストが、まぁ~~~、凄まじい。これはネタバレになるので書きません。実際に観てくださいとしか言えません。気がつくと、主人公の横に居ますよ。

 

 一切のカタルシス、希望が排除された灰色の世界を通して、生命の神秘、命を授かることの尊さを(僕が言うのもくさいですが)を描ききった本作は、まさに何年かに一度の傑作です。



そんなとっても素敵なキュアロン監督の新作は、ジョージ・クルーニー、サンドラ・ブロック共演のSFスリラーらしいです。その名も『Gravity(グラヴィティ)』!!!

2011年2月12日土曜日

ホット・ファズ -俺たちスーパーポリスメン!-

 


2007・イギリス
監督:エドガー・ライト
制作総指揮:ナターシャ・ワートン
製作:ニラ・パーク、ティム・ビーヴァン、エリック・フェルナー
脚本:エドガー・ライト、サイモン・ペグ
出演:サイモン・ペグ、ニック・フロスト、ジム・ブロードベンド、パディ・コンシダイン、ティモシー・ダルトン、ビル・ナイ・・・

 クエンティン・タランティーノ。その世紀末的な名前と作風に映画新時代の到来を感じたのはいつだろう。彼やティム・バートンに続くようにピーター・ジャクソン、ギレルモ・デル・トロなど、21世紀、映画界はオタク監督によって、新時代が切り開かれていると言っても過言ではありません。そしていま、そのタランティーノが猛烈な嫉妬と称賛をわき上がらせずにいられない才能がいる。それが英国の天晴れな映画おバカ、エドガー・ライト。ゾンビ映画への愛を昇華させた傑作『ショーン・オブ・ザ・デッド』では、ゾンビ映画の神様ジョージ・A・ロメロ監督から自らの弟子と認められた才能。
 そして『ショーン・オブ・ザ・デッド』と同じ主演コンビ(サイモン・ペグは脚本も共同執筆)と組んだ本作『ホット・ファズ -俺たちスーパーポリスメン!-』(以下ホット・ファズ)は、オタクのみならず、映画好きなら誰もがとんでもなく楽しめてしまう、究極の娯楽映画!!  タランティーノが認めるオタク監督だけあって、本作でも刑事モノを中心にスリラー、ホラー、マカロニウエスタン、東宝怪獣映画に至るまで、映画ファンをニヤリとさせる映画へのオマージュの数々(パクリじゃないよ)が見られます。   あらすじは、

 ロンドンのエリート警官ニコラス・エンジェル(サイモン・ペグ)。優秀すぎるという理由で、田舎の村へと強制左遷。そこでも張り切るエンジェルだが、アクション映画オタクで、どんくさいバターマン(ニック・フロスト)と相棒を組まされる。ある日、村で怪死事件が発生するも、殺人事件だと主張するエンジェルは相手にされず・・・。

 本作品の冒頭で抜群な能力と生真面目な性格で卓越した業績をあげている主人公ニコラス(サイモン・ペグ)は、ある日突然田舎町に左遷を命じられるます。辞令に納得できないニコラスに上司たちは真顔で言います。「君があまり優秀だと我々が無能にみえるから迷惑なのだよ。」ニコラスは毅然として上司に刃向かいます。
「あなた方がそんなことをしたら僕の同僚たちが黙ってない!!!」
ニコラスが颯爽と部屋を振り返ると、同僚たちは、「さようならニコラス、行ってらっしゃい」という横断幕を掲げて、みんな万遍の笑みを浮かべている・・・。      面白すぎるっ!!!

 一方、コメディ映画として実に一級品なのですが、物語のテンポがアクション映画ばりに異常に良い。それを裏付けるのは編集とカット割り。一言で言うならば、小気味良いのです。というのも、監督エドガー・ライトは、編集技法についてはトニー・スコットやスコセッシに影響を受け、彼らをさらに誇張させた感じだと語っています。しかし、もちろんトニー・スコット、スコセッシの影響が見られるのですが、早々としたカッティングをアクションの空気を醸しだす視覚演出として用いたスコセッシやトニー・スコットとは異なり、エドガー・ライトの執拗なまでのマシンガン・カッティングは画面全体からアクションがないにも関わらず、アクション映画ですよ、と感じさせられる演出なのです。主人公の活躍を馬鹿馬鹿しく語ってしまうユーモアでもあるから、視覚技法の更新に止まらない演出の巧みさは非凡なる才能を感じます。もしかしたら編集によってアクションとユーモアを織り交ぜる部類では、ガイ・リッチーに近いのかもしれない。

 でも、エドガー・ライトがロメロに認められた理由は彼同様、コメディ映画でありながらその作品にはしっかりとしたメッセージ性があるからでしょう。
 以前、『恐怖省』の回でフリッツ・ラングという監督を紹介しました。フリッツ・ラング作品に多く見られるように、映画は歴史的にみて一方で政治に利用され、もう一方でそれに対抗し表現の自由を拡大するプロパガンダのメディアとして発展してきました。つまり、映画はファシズムと戦い、時の権力者を風刺し、その時代の社会背景を描いてきたのです。
 では、独裁者がいなくなった現代における抵抗すべき権力者は誰か。それは大衆でしょう。民衆主義が定着した今独裁者は存在せず、それに取って代わったのは「多数派」です。独裁者としての特定の個人が存在しなくても、均質的な集団というのはファシズムのように横暴で、並外れて突出する人を寄ってたかって叩き潰します。集団で共有する価値基準に従わない人を排除する。そして、絶対的な権力者である大衆には誰も逆らわない。
 これまでの映画が権力を濫用して個人の尊厳を踏み潰した独裁者に反抗してきたように、本作『ホット・ファズ』では、現代その独裁者に取って代わり社会を支配する大衆というファシズムに立ち向かう男の姿を描いています。この『ホット・ファズ』は、もちろん腹の底から笑えるんだけど、ニコラスが村の人々から村八分状態追いやられるところとかは恐怖を感じるし、エンディングには感動をすら覚える。コメディ映画なんだけど、ただのコメディで終わらせないところがエドガー・ライトの魅力。実に現代的。

2011年2月8日火曜日

エターナル・サンシャイン


アメリカ・2004
監督:ミシェル・ゴンドリー
製作総指揮:チャーリー・カウフマン、ジョルジュ・ベルマン、デイヴィッド・L・ブシェル、リンダ・フィールズ、グレン・ウィリアムスン
製作:スティーヴ・ゴリン、アンソニー・ブレグマン
脚本:チャーリー・カウフマン、ミシェル・ゴンドリー、ピエール・ビスマス
出演:ジム・キャリー、ケイト・ウィンスレット、イライジャ・ウッド、キルスティン・ダンスト、マーク・ラファロ、トム・ウィルキンソン・・・

 もうすぐバレンタイン、本当にこんなバカげた風習、誰がつくったのでしょうか。僕はそんな時代の波に逆らう漢です! 
 言い忘れましたが、「おめぇがモテねぇだけじゃねーか」とかいうツッコミはしないでくださいね。

 といっても、世間はバレンタインムードでいっぱいなので恋人たちの季節にぴったりのとびきりの傑作をご紹介したいと思います。
 『エターナル・サンシャイン』、監督はミシェル・ゴンドリー、今公開中の作品『グリーン・ホーネット』の監督です。『グリーン・ホーネット』は僕はまだ観ていないので分かりませんが、ミシェル・ゴンドリー監督はローリング・ストーンズやダフト・パンク、レディオ・ヘッド、ビョークなどなど錚々たるアーティストのPVを手掛けている映像作家で、ロックファンなら一度は彼のつくったPVを観たことがあるかもしれません。
 そしてなんといっても、この作品は脚本が素晴らしい。もう奇跡としか言いようがないです。『マルコヴィッチの穴』や『脳内ニューヨーク』など奇想天外なストーリー展開が持ち味のチャーリー・カウフマンを中心に作成されたもので、脚本を手がけたカウフマン、ゴンドリー、ピエール・ビスマスの3人はこの作品によって2004年度のアカデミー賞脚本賞を受賞しています。ゴンドリー監督の幻想的映像世界とカウフマンの巧妙なストーリー展開により、メビウスの輪のように入り組んだこの物語に引き込まれていく、そんな映画です。

 あらすじは、
恋人同士だったジョエルとクレメンタインは、バレンタインの直前に別れてしまう。そんなある日、ジョエルのもとに不思議な手紙が届く。「クレメンタインはあなたの記憶をすべて消し去りました。今後、彼女の過去について絶対触れないように-」。自分は仲直りしようと思っていたのに、さっさと記憶を消去してしまった彼女にショックを受けるジョエル。彼はその手紙を送り付けてきた、ラクーナ医院の門を叩く。自分も彼女との記憶を消去するため・・・。

 まずキャスティングに工夫が見られます。地味で暗めなジョエルをジム・キャリーが、エキセントリックで直情的なクレメンタインをケイト・ウィンスレットが演じるていますが、今までの役柄から見るとお互いの性格を交換したような形です。これをミスキャストと見るか、新鮮と見るかなのですが、明らかに後者ですね。ジム・キャリーの過剰なコメディ演技のイメージは全くなく、この映画の彼はとても自然です。イライジャ・ウッドがちょっぴり曲がった役を演じているのもおもしろい。
 
 そして、時間軸はバラバラでとっぴな発想と大胆な映像が満載とかなり変わった物語進行をします。そのため、初めに見た時は面食らうかも知れませんが、それこそが本作品の魅力で、一度流れにのれば、後は主人公と一緒に記憶を遡る旅に夢中になります。観る者を映像世界に迷い込むという映画独特の浮遊感で満たしてくれます。また、季節感を大事にしていたり、小道具の丁寧な描写など、映画好きを喜ばせる細かいディティールも素晴らしい。クレメンタインの髪の色に注目してみると時間軸の前後が分かったりします。これはこの映画を楽しむひとつのコツかも。



 そして、僕は本作『エターナル・サンシャイン』を観たとき『クリスマス・キャロル』の影響を感じずにはいられませんでした。
 『クリスマス・キャロル』というのはご存じディケンズの小説で、強欲な金貸しのスクルージ爺さんがクリスマスの夜に夢の中で彼自身の人生の過去、現在、未来のヴィジョンを見て、おのれ生き方の間違いを知り、目覚めるとすっかりよい人になりました・・・というお話です。おのれの人生を凝縮した時間のうちに幻視することによって「回心」を経験する、というお話です。
 一方、『エターナル・サンシャイン』は、主人公の青年ジョエル(ジム・キャリー)と恋人クレメンタイン(ケイト・ウィンスレット)が喧嘩のあとに、それぞれ「記憶を消す」サービスを受けて、相手のことを忘れてしまう。そして二人とも相手が自分のかつての恋人であることを忘れたままに出会ってしまう・・・という設定です。   では、どこが『クリスマス・キャロル』かと言いますと、記憶を消去する手術のさなかにジョエルが自分の記憶の中に分け入って過去を「もう一度リアルに生きる」という経験をするところです。そうすると、過ぎ去ってしまって、もうその意味が確定したはずの過去の出来事が「別の意味」をもって甦ってくる。

 つまり、自分のしてきたことがどんなものかをもう一度別の視点から見たときはたして自分はどう思うのかということで共通です。しかし、『クリスマス・キャロル』でスクルージが自分のしてきたことが間違いだと気づかされるというどちらかと言えばマイナス面なのに、『エターナル・サンシャイン』はジョエルが自分の記憶を辿ることで、クレメンタインとの恋、酸いも甘いもすべてがかけがえのないものだと気づかされるというプラスの意味で描かれています。
 改めて、『クリスマスキャロル』のテーマ性が不変であり、現在でも世界中で愛されている所以を感じます。




 確かに無垢な心には、世界は新鮮に映るかもしれない。何もかもがゼロから始まれば、人生はやり直せるようにも思でしょう。では、はたして経験したどうしようもない苦しみや哀しみは無意味なのか。

 その答えは、あなたがジョエルと一緒に記憶を巡る旅を終えたときみつかるでしょう。

2011年2月5日土曜日

恐怖省

 
1944・アメリカ
監督:フリッツ・ラング
製作:シートン・I・ミラー
原作:グレアム・グリーン
脚本:シートン・I・ミラー
出演:レイ・ミランド、マージョリー・レイノルズ、カール・エスモンド、ダン・デュリエ、アラン・ネイピア、アースキン・サンフォード・・・

 今回は久しぶりに洋画クラシックの名画をご紹介したいと思います。フリッツ・ラング監督作品、『恐怖省』です。「恐怖症」ではないことにご注意を。
 フリッツ・ラング、誰やねんと思う方もいるかと思います。このフリッツ・ラング監督はドイツ人監督で、SF映画の伝説的金字塔『メトロポリス』やトーキー初期のサスペンス傑作『M』などを制作し、サイレント末期からトーキー初期のドイツ映画を代表する傑作を手がけた名匠中の名匠です。そして、ラングの映画に共通するテーマとして、「過酷な運命に必死に抗う人々」があります。というのもラングはよほどのナチ嫌いだったらしく、当時の宣伝大臣ゲッベルズからラングの才能を評価され、甘言を弄して亡命を阻止する中、間一髪で1934年にフランスへ亡命し、さらにアメリカに渡った人なのです。また、この際、ナチスの支持者となった妻とは離婚しています。 
 戦争中など人々の行き場のない思いが蓄積され、フラストレーションが起きているときにこそ文化的名作が生まれやすいというのはよく言われることですが、ラングの経歴はまさにそれを象徴していますね。

 というわけで、本作『恐怖省』もそんなナチ嫌いなラングらしい「過酷な運命に必死に抗う人々」がテーマとなる秀作サスペンスです。  あらすじは、
 イギリスのレンブリッジ精神病院。6時が時を打つとともにスティーブン・ニールの退院の瞬間がやって来た。駅に着き、列車が遅れていることを知ったニールは、中流婦人たちが催す慈善バザーの会場に入ってゆく。直前に占い師のベレイン夫人に予言され、ニールはケーキの重さを当てるコンテストに優勝する。それからニールは、奇妙な事件に巻き込まれていく・・・。

 まず、とにかく光と闇に演出される雰囲気が何とも言えず独特。降霊術のときの龍の玉に照らし出されるニールの表情、妹に撃たれたときの銃弾が貫通した穴からわずかに見える兄の倒れる姿、屋上での銃撃戦の闇から撃ち放たれる一瞬の銃口の光。闇の底知れぬ深さと光のコントラストはサスペンスとしての最高の舞台を作り上げています。これは白黒映画でしか味わえない独特の世界観です。

 内容は第二次大戦下のイギリスで、過去のある男が巻き込まれる陰謀、極秘情報をめぐるサスペンスで、典型的な巻き込まれ型サスペンス映画のパターンで、ヒチコックの『暗殺者の家』などによく似ています。そして、特筆すべきは良い意味でジェットコースタームービーで、展開がめちゃくちゃ早いことです。やはり観客を飽きさせない演出は心憎い

 ヒチコック映画はもちろん、この種の映画で陰謀に巻き込まれた主人公はしばしば、周りの登場人物に「頭がおかしいのでないか」と疑われたり、自分自身を疑って混乱に陥ったりします。しかし大抵、主人公に対する観客の信頼は、それほど揺るがせられない。良い例が『北北西に進路を取れ』などです。ケーリー・グラントも、不吉なものを内側に感じさせはしても、「いつか無実が明らかになる」という安心感があります。
 しかし、本作『恐怖省』のおもしろい点は、途中まで、「本当に主人公がおかしいのではないか」と思わせる不安定さで満ちているところ。そしてそこが実に魅力的なのです。ひとつには、主人公ニールが精神病院を出てきたばかりという設定があります。彼はその経歴ゆえに、周囲に対する接し方が微妙にズレており、どこか信頼がおけない。また、ニールを演じるレイ・ミランド自身が持つ、精神面での脆さを感じさせる雰囲気もあります。この映画はワケの分からない事態に負われる切迫感とともに、主人公の表情や行動がどこかズレた浮遊感を漂わせているために、「おかしいのは主人公なのでは?」という疑いを常に観客に与え続けるのです。これは、間違いなく後世の『ビューティフル・マインド』や『シャッター・アイランド』に代表される作品に影響を与えています。

 

 ラングの光と闇の魔術に酔い、主人公と同じ視座で、背後にあるナチスの恐ろしい陰謀を体感してみては。

2011年2月4日金曜日

特集三部作『ロード・オブ・ザ・リング 王の帰還』



2003・アメリカ、ニュージーランド
監督:ピーター・ジャクソン
製作総指揮:ボブ・ワインスタイン、ハーヴェイ・ワインスタイン、マーク・オーデスキー 
製作:ピーター・ジャクソン、バリー・M・オズボーン、フラン・ウォルシュ
脚本:ピーター・ジャクソン、フラン・ウォルシュ、フィリッパ・ボウエン
出演:イライジャ・ウッド、ショーン・アスティン、イアン・マッケラン、ヴィゴ・モーテンセン、ジョン・リス=デイヴィス、オーランド・ブルーム、ジョン・ノーブル、ショーン・ビーン、ケイト・ブランシェット、ヒューゴ・ウィーヴィング、リヴ・タイラー、バーナード・ヒル、ミランダ・オットー・・・

 特集を組んでやってまいりました特集三部作『ロード・オブ・ザ・リング』もいよいよ最終章であります。
 ではさっそく行きましょう。『ロード・オブ・ザ・リング 王の帰還』。あらすじは、
冥王サウロンの指輪を葬る旅に出た仲間たち。アラゴルンたちと別れてしまったフロドとサムは、ゴラムの案内で滅びの山へと近づいていたが、指輪を取り戻したいゴラムは、2人を陥れる計画を練っていた。一方、ヘルム峡谷の戦いに勝利したアラゴルンたちは、オルサンクの塔を襲撃したメリー、ピピンと合流する。再会を喜び合う間もなく、サウロンが人間の国ゴンドールを襲うと知ったガンダルフは、ゴンドールの執政デネソールに忠告するため、ミナス・ティリスの都へ向かった。
 
 本作『王の帰還』によって、映画史を塗り替えるこの壮大な三部作がついに完結です。感無量で何を書いていいのかわからないし書き出せばきりがないというのが本音です。僕同様、この映画に魅せられて映画狂に陥った方は多いと思います。

 まず物語のハイライトとして観る者を引き付けるのは、ミナス・ティリスの合戦です。もうこれは間違いなく後世にまで語り継がれる合戦シーンでしょう。三部作『破』にあたる『二つの塔』では、ろう城戦でしたが、『急』にあたる『王の帰還』ではまさに大戦争といった感じでしょうか。
 主要キャストがほとんど特殊メイクの『猿の惑星』(1968年、フランクリン・J・シャフナー監督)、宇宙SFというジャンルを一般化させた『スターウォーズ』(1977年、ジョージ・ルーカス監督)、CG合成の可能性を開いた『ジュラシック・パーク』(1993年、スティーブン・スピルバーグ監督)と、映したいものをフィルム上の絵に描くための技術は年々進歩してきたが、それらが皆ここに極まったといっていいでしょう。
 原作の世界観を忠実に再現しようとした監督・制作関係者の誠実さが伝わって来ると同時に、それを独自解釈し画面上に繰り広げている。幾層にも重なるミナス・ティリスの荘厳な城壁、荒涼としたモルドールの黒い大地、巨象の怪獣ムマキル、おどろおどろしい幽霊軍などなど、迫力あるシーンから細部まで原作ファンの期待をも裏切らない見事な映像化です。『二つの塔』の時にも言いましたが、映画館で鑑賞したとき、まさにすぐそこが戦場で、単身最前線へ放り出された感覚に陥ったのを覚えています。
 
 そして、特に印象的だったのが、味方の軍勢が実に人種的に西洋チックであるのに対し、敵の軍勢が人種的にアフリカ系を思わせたり、東洋系を思わせる点です。というのは、まずオーク軍勢の造形が、はっきり言うと黒澤映画の足軽っぽいんですよ。黒っぽい鎧をまとい、泥臭くて野蛮な感じがほんとにそれをほうふつさせる。一方、巨象の怪獣ムマキルの軍勢は、明らかに黒人なんです。僕は、おそらくこれは人類普遍の民族間衝突といものを底辺で描こうとしているかな~なんて思うのですが。
 まぁ、ピーター・ジャクソンはオタク監督ですから、合戦シーンは間違いなく黒澤映画の影響が見てとれます。




 「エモーショナルな演技と物語は、どんな特殊効果にも優る」。これは、ピーター・ジャクソンは、今回の経験を通して前記のことを学んだそうです。その発言からもの分かるように本作『王の帰還』の最大の魅力は、合戦シーンではないの明らかです。指輪を通して描かれるヒューマニズムなのです。
 これ以下は、僕の勝手な考察なので、あまりあてにはならないと思うのですが・・・。
 ロード・オブ・ザ・リングの興味深い点は、物語上活躍するのが社会的弱者であるという点です。特にホビット、これはその造形からもわかるように人間の子供です。つまりホビットとは、「子供」のメタファーとして描かれたものだと考えます。また、女性の活躍も目立ち、ローハンのお姫様のエオウィンが敵の大ボスを大ボスを倒してしますところとか。『エイリアン』ばりのフェミニズムさえ感じられるのです。 一方、この中つ国の人間という種族は、世界をめちゃくちゃにした欲深な種族として描かれてます。例えば、イシルドア始め、ボロミア、ゴンドールの執政デネソールなど。ほんとどうしようもない奴ばかり。
 その上で、本作『王の帰還』では、このホビットのフロド、サムとゴラムの描写が非常に丁寧な描写が目立ちます。これは、『二つの塔』の投稿でも触れましたが、ゴラムというのは強欲そのもののメタファー的存在です。
 ゆえに、僕はこの『ロード・オブ・ザ・リング』の構造は、人間がめちゃくちゃにした世界を「子供」というそれまで社会から疎外されたものが、世界を救いおうと、最後に強欲という人間の切り離せなっかた究極の醜い部分に打ち勝つというもので、この指輪を捨てる旅というものがホビットたちにとってもひとつのイニシエーションとなっています。 そして、その希望的観測こそトルーキンが後世に伝えたかったことのかも・・・    とひとりで思いにふけるのわけで・・・。

 ともあれ、やはりこれだけファンタジックな世界観でありながら、それぞれの登場人物が(良い意味で)とっても人間臭く感情移入させてしまうところはスゴイの一言。例えば、人間とエルフという種族を超えたアラゴルンとアルウェンの愛、アルウェンとエルロンド、あるいはエオウィンとセオデンなどの親子愛、そしてフロドとサム、メリーとピピン、レゴラスとギムリといった旅の仲間の友情。そのニューマニズムという観点でも、もちろん前2作あってなのですが、完結編が一番素晴らしい。特にサム!! ゴラムの策略によって裏切られ傷つきながらも、指輪を運ぶものの苦しみを思いやり、苦闘する姿はもう・・・。「指輪の重みは背負えないけれど、あなたなら背負えます!」
 また、サブタイトルにもなっているアラゴルンの王としての帰還へつながる伏線上に盛り込まれた人間の王達の苦闘、エルフの苦悩などでどんどん物語の奥深くに引き込まれ、指輪を葬った後のそれぞれの登場人物に待っている、それぞれのエンディングの場面では、心地よい涙が流れることは必至です。

 



 この歴史的叙事詩にリアルタイムで立ち会えたことは、ひとりの映画狂としての大きな誇りですね。
 3回にわたって実施してきた特集でしたが、つたない長文の中読んでいただいた読者の方、本当にありがとうございました。